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Scene14      ――トゥエル・ジャック

 

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    14

 

 

 ――ぱりぃィん!


 茶色の小瓶は僕の指からすり抜け、タイル張りの床に落下してこなごなになった。中に入っていた咳止めの黒い丸薬が何十錠も飛び散り、まるで石の下に隠れていたダンゴムシの一群のように方々に転がっていく。僕は何が起きたのか直ぐにわからず、診察室の棚の前に突っ立ったままその光景を眺めた。


 ……別に驚くほどのことではない。ただ指が滑ったのだ。


 もったいないことをしてしまった、洗って再利用というわけにもまさかいかないだろう、早く片付けなくては。 僕はそんなことを考えながら薬と瓶の破片を拾おうとして、


「……ッ」


 その瞬間、膝に鋭い痛みが走り思わず立ち上がる。視線を下ろすと、右膝の真ん中あたりに小さなガラス片が食い込んでおり、赤い血の最初の一筋がむき出しの脛に伝い落ちていくところだった。

 

 



 ――ぷつんッ!


 琴の一番細い弦を爪弾いたようなその音は、患者さんの皮膚の下から引っ張り出しつつあった糸が切れた音だった。


 刃物による二の腕の裂傷。肘近くから肩口に向かって約7センチ。位置としては、決して難しいものではないはずなのに。


 弧状の縫合針を左手に持ったまま、僕は呆然として宙ぶらりんになった糸と糸を眺める。釣れたと確信していた魚に逃げられたような気持ち。牛の腸で作った手術用の糸は普通の絹糸よりも切れやすいが、一回の縫合で二度も失敗するのは7歳の頃に自分の太ももを練習台にしたとき以来かも知れない。


「おいおい、ちゃんとやれよなァ」


 患者であるトビ職人さんが、日焼けした顔に渋面を浮かべて舌打ちした。


「ご、ごめんなさい」


 僕は慌てて傷跡に脱脂綿をあてがう。


 ――文句を言いたくなるのも当然だ。糸のついた針を通すたび、彼の腕には痛みとともに新しい穴が開いているのだから。もっと荒っぽい人だったら、頭のひとつもはたかれていたことだろう。

 

 


「一体どうしたんだ、トゥエル」


 午後7時。


 診察時間が終わって、患者さんたちのいなくなった待合室。掃除のバケツをひっくり返した僕に向け、レイケイ先生が呆れたように言った。


「ぜんぜん集中出来てないじゃないか。そんなんじゃ、明日からは注射も任せられないぞ」


「……すいません」


 僕はうなだれて答える。自分でも、自分の不調ははっきりわかっていた――もちろんその原因も。


「何か悩みでもあるなら言ってみろ、ん? 小遣いか、それとも女か?」


「――……」

 

 後者だ、とは、言えなかった。


 僕はレイケイ先生を尊敬している。いや、崇拝しているとすらいっていいかも知れない。深酒する癖と寝起きの悪さが珠に瑕だけど、医師としての技術うでと知識は間違いなく一流だし、その精確なメス捌きはほとんど芸術的といっていいほどである。 敬う理由はむろんそれだけではない――トゥエル・ジャックはかつて、レイケイ・シャーダーによって救われたのだ。そういう意味では、尊敬するだけでなく強い恩義も感じていた。 そして、だからこそ、いま僕は不調に陥っているのだ。


「すいません、先生。なんでもありません」


 と僕は答え、眼鏡越しの視線から逃れるように床にはいつくばって掃除を再開する。レイケイ先生は「ん、そうか」と答え、カルテの整理を再開した。


 ……後ろめたい。


 あまりにも後ろめたい。


 待合室の床のタイル、患者さんの誰かがこぼしたのであろう血痕を僕はごしごしと拭う。だがそのための腕が重い。いや、重いのは腕だけでなく頭もだ。床を拭きながら、僕の頭は勝手に床以外のことを考えてしまっている。床のタイルの下のさらに下、地下室のベッドで寝ているであろう彼女のことを。


 地下室は僕の寝床であると同時に診療所の備品置き場でもあるわけだけど、レイケイ先生はめったにそこへ降りていきはしない。消毒液や包帯など、使用頻度が高いものは朝のうちに診察室の棚に補充しているし、もし何かが足りなくなっても先生は僕に向かって「アレ持ってこい」と命じるだけで済むから。


 診療所の一室や、大事な道具の管理を任されていること。それは先生から僕への信頼の証だ。尊敬する先生から信頼されることは僕にとって掛け替えのない喜びであり、そしてその喜びは、僕の普段の仕事振りに対する評価でもある。だが……その地下室に彼女を匿うのは、先生からの信頼を自分のために利用することに等しかった。


 それが、こんなにも後ろめたいことだったなんて。


 裏切ってしまったのは信頼だけではない。常日頃から言われていた“慈善事業はするな”という教え。そして、許可なく使用してしまった黒水晶モリオンの針は僕に管理を任されていた、先生の大事な財産の一部なのだ。


“針”のストックはまだ何本かあるので、しばらくは無断使用がばれてしまうことは無い。だが本当は、その日のうちにすぐ言わなくてはならなかった――使ってしまったと。働いて必ず返すと。


 でも、そうしたら誰に使ったかも言わなくてはならなくて、そうしたら先生は地下室で匿っている彼女のことを知ることになり、そうしたらきっと先生は彼女のことを追い出すだろう。 ほとんど死にかけている状態からようやく回復して、まだろくに立ちあがることも出来ない彼女がいま外に追い出されたら間違いなく死んでしまう。そんな恐ろしいことは避けなくてはいけない……。


 ……いや、もう正直に告白してしまおう。僕が本当に恐れているのは彼女が見つかり、彼女が死んでしまうこと……。彼女が見つかり、彼女のためにやった背信行為が明るみになって、先生から破門を言い渡されることだ。


 レイケイ診療所での日々は僕にとって幸福そのものだった。雑用は大変だし給金は雀の涙だけど、ここには尊敬する師と、学び甲斐のある仕事と、あたたかい食事がある。いつかは見習いを卒業して、先生のような立派な医師になることが僕の夢だ。


 彼女に“針”を使うと決めたとき、覚悟は決めたつもりだった。でも、もし、本当にこの充実した生活が失われてしまった場合のことを考えると……。


「トゥエル」


 名前を呼ばれ、僕は弾かれたように顔をあげる。帰り支度を済ませた先生は、ちょっとだけ迷ったように無精ヒゲを掻いてから言った。


「あー、そのなんだ。今日はお前もどうだ?」

 

 この時間、レイケイ先生が出かけるといったら目的はひとつしかない。僕は驚いて尋ね返した。


「どうだ、って……お酒ですか?」


「ああ。お前もいつの間にか、そういう歳になってたと思ってな」
 アーヴィタリスには飲酒を年齢で制限する法律はない。とはいえ、衛生事情のせいで薄めたワインが水代わりに飲まれていた大昔とは違って、上下水道が整っている昨今では市民学校を卒業したくらいからが飲酒OKな年齢という慣例ことになっている。 僕はいつも先生の酒癖の悪さを咎めはしているものの、一緒に行きたいかと問われればもちろんイエスだ。酒場のひとたちと先生がどんな話をしているのか聞いてみたいし、横で張り付いていれば深酒しすぎる手前で止められるかも知れない。だから普段ならば、尻尾を振ってついていったことだろう。


 僕は後ろ髪を引かれつつも愛想笑いを浮かべ、そしてまた、嘘を重ねた。


「これから洗濯と、道具の手入れと、明日の準備とご飯の用意とトイレ掃除があるんですけれど。先生、どれから手伝ってくれますか?」


「…………また今度にするか」


「はい。先生、また明日」


 本当を言えば、挙げつらねた仕事のいくつかは後回しにしてもかまわないものだった。


 しかし僕には、先生に先に帰ってもらわなくてはならない理由があった――今日はまだ、サーナの晩御飯を運んでいないのだ。


 去り行く背中を見つめながら、心の中にはさらなる後ろめたさが募っていく。嘘が嘘を呼ぶという格言は、きっと今の僕のためにあるのだろう。


「――あのな、トゥエル」


 玄関から半歩分身体を出した状態で、先生はこちらを振り返って言った。


「ここ数日のお前についてだが……まあ、ミスをするなとは言わん。俺だってこれまでの人生で、数え切れないくらいの失敗をしてきた。だがな。師として命じるが、ミスをしてしまうような精神状態に自分を置いたままにするのはやめろ。それは医者として、最低限の勤めでもある」


「勤め、ですか」


 僕が繰り返すと、先生はもう半分身体をこちらに向けて頷いた。


「そうだ。患者ってのはなりたくて患者になってるわけじゃない。昨日まで元気だった老人が発作で倒れる。今朝は健康だった男が辻斬りにあって倒れる。怪我するのだって病気に罹るのだって、本人からすればいつも突然だ。それはつまり、俺たちにとってもいつどんな客が来るかわからないということでもある。
 俺たちの商売は時計みたいなものなんだよ、トゥエル。いくら装飾や文字盤だけ立派だとしたって、すぐに時間がズレてしまうような時計は使い物にならないだろう? いつでも精確な時間を指し示すが良い時計というものだ。そして、そういう精確さが俺たちの仕事にも求められる。たとえば注射を打ったり、メスで切開するときには、ほんの少し切る位置がズレるだけで関係ない神経や血管を傷つけてしまうかもしれないわけだしな。
 だからな、トゥエル。お前が良い医者足らんとするならば、時計の歯車に油を注したり、螺子を巻いたりするように、お前自身もいつでも十全の状態にしておかなくてはならないんだ。――いいか?」


 先生の口調は厳しく、そして最後の問いかけは優しかった。突然、僕は頭の中に抱えているものすべてをぶちまけて土下座し、許しを乞いたいという衝動にとりつかれた。あのつっけんどんな少女とこの恩師の、どちらの関係を大事にするべきなのか……答えに悩む必要はないと、そんなことを本気で思いかけた……


「そう。良い医者は常に自分を最良の状態に保つ」と先生は続けた。今度は少しだけ、冗談めかした気配を声に滲ませて。「この意味がわかるか、トゥエル?」


 もちろんすぐにわかった。だが、普段どおりの軽口を利くためには、普段よりもずっと意志の力を必要とした。


「……先生が毎晩しているように、ってことですね?」


 どうにかそう返すと、先生は満足げに微笑み、言った。

「もちろん。俺の場合は酒を切らしたら、次の日は指が震えて大変なことになるからな」と。

 

 



 一人きりになった診療所で、僕は猫の額のように狭い台所に立ち、夕食の準備をはじめた。 結局、先生に隠し事を打ち明けることは出来なかった。いずれ必ず話すことになるとはいえ、それはやはり、もう少しサーナの体調が良くなってからでなくてはならない。もちろん隠し通すことが出来るかどうかは別の問題だけど。


 ベーコンと卵のスープをかき混ぜながら、僕はさっきの先生の教えを反芻する。


 ――良い時計のように、いつでも精確であるということ――。


 言葉にするのは簡単だが、その実践はかなり難しいことのように思える。時計と違って人間には感情があるのだ。油を差したくらいでは、一度狂ってしまったそれはスムーズになってくれない。


 ……逆にもし、時計に感情があったらどうだろう? ひょっとしたら、朝あと5分寝ていたいとお願いしたら針を止めてくれるかも知れないし、早くお昼ごはんが食べたいとお願いすれば12時まで早回ししてくれることもあるかも知れない。だがそんなものは決して良い時計とはいえない。


 常に精確であること。贔屓したり、怠けたりしないこと。患者にとって、それは理想的な医師といえるだろう。そして、僕はいつかそうならなくてはならない。


 ならばきっと先生は、僕にこう言いたかったんだと思う――感情を殺せと。大人になれと。

 

 その真意を汲み取り、僕はますます落ち込みそうになる。無一文の加工生命の少女を助けようとしたこと、あまつさえ貴重な黒水晶の針まで使ってしまったことは、贔屓といえばこれ以上ないほどの贔屓なのだから。


 ……サーナはどうしているだろう。
 あの雨の日からもう四日が過ぎて、意識が戻ってからは色々質問しようとしてはみたものの、僕が彼女について知っているのはまだごくわずかなことでしかなかった。サーナはいつもツンケンしていて、頑なで、何かに怒っていた。どこまでもこちらのことを信用しようとしないその様子はまるで警戒心の強い野良猫のようだった。

 

 まあ、それも無理のない話なのかもしれない――銃で撃たれ、さんざんに殴られるなんて目に逢った直後なのだし、それに彼女の生身の皮膚に残った古傷の数々は、これまでの人生で遭遇してきたのだろう“酷い目”を想像させるには充分だった。


 でも……。


 湯気のたつスープを椀によそいながら、僕はつい思ってしまう。


 でも……話を聞かせてくれるくらいなら、別に良いのではないかと。鋼のように硬い右手で、思い切り叩かなくても良いのではないかと。だって僕には彼女を“酷い目”に逢わせるつもりも、治療費などを請求するつもりもまったくないのだし、それどころか恩師に嘘までついて、こんな危ない橋を渡っているのだから。


 もっとも、勝手に助けておきながらそういうのを求めたくなってしまうのは、やっぱり僕がまだ子供だからなのかも知れないが……


 スープとパンとまだ剥いてない林檎を盆に載せ、診療所の一番奥の台所から出る。地下室へ降りる階段は待合室と診察室を繋ぐ短い廊下の手前側にある。階段の入り口には一応扉はついているけれど、鍵はないために患者さんが間違えて降りていってしまったり、そのうち足が良くなったサーナが出てきて先生と鉢合わせてしまうという危険があった。何か対策をしなければと思いつつも良いアイデアが浮かばず、今に至っているわけだけど。


 盆を右手に持ち、左手で地下室への扉を開ける。スープをこぼさないように慎重に階段を降りようと一歩踏み出し……


 ……僕は、馬鹿だ。


 外ならともかく、診療所の中で血のにおいがしても疑問なんて感じない。切り傷を負った患者さんが歩けば血が垂れるのだって当然だ。さっき待合室の床にあった数滴の血痕も、そうして外から来た患者さんの誰かが残していったものだと、たった今まで思い込んでいた。……何故なら僕は、たった今まで、サーナが歩けるようになるにはまだしばらくかかると思い込んでいたから。


 馬鹿か。


 地下室に続く石の階段には点々と血が付いていた。まるで誰かが、ひどい怪我をしてる誰かが、痛む足を引きずりながらそこを登ったかのように。


 投げ捨てるように盆を置く。縁から転がり落ちた林檎を追いかけるように階段を駆け下りる。


「サーナ!」


 思わず声が出ていた。もうそこに彼女はいないと、頭ではわかっているのに。


 ロウソク一本きりの地下室から返事は無論なく、もぬけの殻のベッドを確認した僕はシーツに手を当てる――まだ少しだけ暖かい、床に付いた血も乾いていない、恐らくまだそんなに時間は経っていない。


 跳ね返るゴム球のように階段を駆け上がった。自覚していたつもりだったけど、やっぱり僕は彼女のことを知らなすぎた――まだ歩くなんて到底無理だと思っていたのに。僕の診断が間違っていたのか、それとも、彼女の意志や根性が想像のずっと上だったか。


 誰にも気づかれずに待合室を通り抜けたこともそうだ。僕や先生はどちらかというと診察室にいることのほうが多いし、待合室には患者さんがいないときだって当然ある。残った血痕から察するに、彼女はおそらく、階段を登りきったところでしばらく息を殺し、そして人気の無くなる隙を伺っていたに違いあるまい。もしかしたらサーナは、普通よりずっと他人の気配などに敏感なのかもしれない……そうでなければ、この街では生きていけなかったのかもしれない。


 飛び出すように玄関を出る。表の路地の左右を見渡す。宙を舞う蟲の灯りの下、まばらな人々が家路へと急いでいる。あるいは繁華街へ繰り出そうとしている。下町のごく当たり前の夜の景色、そこに彼女の姿はない。


 僕は地べたに這いつくばった。雨が降っていないのは幸いだ。目を凝らすとすぐに、ぽつぽつと垂れた血痕が見つかる。右だ。


 血痕は十メートルほどの間隔をあけて続く。途中見失ったかと焦ることが何度かあったが、可能な限り人通りのある大きい道を避け、狭い路地を選んでいるという法則にすぐに気がついた。血痕の間隔は追えば追うほど短くなっていき、そしてその大元へたどりついたのは、診療所からなんと三区画分も進んだ場所でのことだった。


 近くの側溝を流れる水の音が聞こえる。路地裏というよりも建物と建物の隙間といったほうが正しい狭隘な抜け道に、サーナは力尽きたようにうずくまっていた。頭には毛布を被り、点滴用のスタンドの足元を抱えるように背中を丸めている。どちらも地下室から持ってきたものだ。毛布は皮膚を隠すため、点滴スタンドは杖代わりにするためのものだろう――重かっただろうに。


「戻らないわよ」


 駆け寄る足音に反応し、肩越しに振り返ったサーナは僕を睨みつけてそう言った。


 ぜいぜい、はあはあ。僕は言い返すことも出来ずに呼吸を整える。たいした距離ではなかったはずなのに、すっかり息があがっていた。


 とにかく見つけられて良かった。意識もはっきりしているようだ。……そう安心する一方で、何だか急に腹立たしくもなってきた。こんなことで体力を振り絞ったら、治るのがますます遅くなってしまうのに。


「帰ろう」


 僕は感情を押し殺してそう言った。


 うずくまったままの彼女を助け起こそうと手を差し伸べる――肩に手が触れる――振り払われる。ばしん。右手首に、まるで金属の棒で叩かれたような痛みが走る。


「触わんないで」とサーナは言った。


「……それでもいいけど、早く帰ろうよ。傷が開いて血が出てるし……早く止血して、消毒して、包帯も巻きなおさないと」


「うるさいわね。こんなのツバつけときゃ治るわよ。それに、最初に戻らないって言ったでしょ。あんた聞いてなかったの?」


 サーナは怒ったような声でそう答え、怒ったような視線を僕に向ける。本当にわからない……こっちは心配してるってのに、どうしてこんな眼で見られなくちゃいけないんだろう?


「……じゃ、このままここで倒れてるの?」


「大丈夫よ。今ちょっと休憩してるだけよ。もう少しだけ休んだら、ちゃんと立ち上がれるようになるもの。そうしたら、私は行くんだから……」


「診療所に?」わずかな期待を込めて僕は尋ねた。だが彼女の頑なな横顔は、それを一片の余地なく否定していた。僕は思わずこう続けていた。「……それとも、あの世に?」


 サーナは再び僕を睨めつけた。最初のときからひとつも変わらない、手負いの獣そのままの眼光で――……けれど、


「どうして……」


 けれど今の僕の瞳には、きっと負けず劣らずの怒りが浮かんでいるはずだ。


「どうしてそんなに死にたがるんだ!?」


 突然の大声に驚いた羽蟲がぱっと軌道を変えて逃げていく。驚いたのは僕自身も同じだった。一瞬前まで叫ぶつもりなんてまったくなかったのに。そしてひとたび堰を切った感情は、とどまることなく喉からあふれた。


「君がいくら盗られたかは知らない。でもそんな大怪我してるのに、今から取り返しに行くことなんてできっこない! もし泥棒を見つけられたって返り討ちにあうに決まってる――生きたくても生きれない人だってたくさんいるのに、自分から命を捨てに行くなんて馬鹿げてる! ちょっとのお金で命を落とす人はいくらでもいるけれど、でも、いくらたくさんのお金を積んだって、命を取り戻すことは出来ないんだよ!」


 叫ぶつもりはないはずだった。感情を殺さなくてはいけないはずだった。けれど喉から迸る言葉は間違いなく僕の本音であり、いまさら引っ込めたいなどとは思わなかった。


 サーナは顔を伏せ、何も言い返そうとしなかった。ただでさえ薄暗い建物の隙間は蟲が飛び去ってなお暗くなり、毛布に隠れたその表情を読むことは出来なかった。彼女は黙ったままでいた。隣の路地を馬車がガラガラと駆けていく。どこかの家で赤ん坊が泣いていた。


「……あの、」


 気まずくなって、僕は続く言葉も考えずに声をかけようとする。けれど伸ばした指が触れる直前、サーナは両腕にぐっと力を込め、棒登りをするように点滴スタンドにすがりついて立ち上がった。


「……わかる、もんか……」


 そして歩く――。一歩、二歩、三歩と。点滴スタンドを杖代わりにした歩みは思いのほか力強く、歩調も駆け足のように速い。だがその激しさは燃え尽きる寸前のロウソクみたいだ。


「あんたなんかに、何がわかるもんか……!」


 止めようと思えば、僕は彼女を止められるはずだった。けれど動けなかった。声も出なかった。彼女の言うとおり、僕はどうすればいいのかわからなかったのだ。


 サーナはがむしゃらに十メートルほど歩き、そして路地に出る直前でつんのめるようにべしゃりと崩れ落ちた。その拍子に、被っている毛布の内側に抱えていた何かが転がり出た。握りこぶしより少し大きいくらいのそれは石畳の上を二回ほど跳ね、そしてドロだらけの側溝に落下してぼとんと音を立てた。


 ……パンだ。毛布や点滴スタンドと同じく、僕には見覚えがある。今日の昼に彼女にあげた、クルミ入りのパン。夕方に彼女の様子を見にいったときには皿は空だったから、てっきり食べてくれたものだと思っていたけれど……。


 ――あっ、


 小さな悲鳴はサーナがあげたものだ。ひどい転び方をしてもうめき声ひとつ漏らさなかった彼女は、だが転がったパンの行方に悲鳴をあげていた。点滴スタンドが倒れるのも構わず彼女は這いずり、泥だらけの側溝に手を突っ込んでパンを拾い上げる。そして、泥水を吸ってもう食べられるようなものではなくなってしまったはずのそれを、お腹のあたりに大事そうに抱えてうずくまった。


 診療所から出たあとのお弁当にするつもりだったのだろうかという僕の想像は、そのしぐさを見て的はずれなものだと直感した。理由はうまく言えないけど……でも、彼女は……


「……誰かに、それを渡そうとしたの?」


 と僕は尋ねる。


 答えはない。……でも、きっとそうだ。


「誰かに、そのパンを食べさせてあげるつもりだったの?」


 サーナは倒れたまま、息を切らせながら言った。


「……なんで、あんたに……そんなこと、わかるのよ……」


「だって、あの地下室にはメスとかノコギリとか、使い方次第では凶器になるものがたくさんあるから。もしサーナが泥棒たちに復讐しに行くつもりだったら、それを持ち出せば良かったはずなんだ。なのに……そんなにも無理してまで持っていこうとしたものが、一切れのパンだなんて……」


「わかりっこないわ、……わかるわけない。あんたなんかには、絶対に……」


「……わからないって、何が?」


 サーナは僕を睨む――怒りを込めて。焦りを込めて。


 怒り。焦り。苛立ち。屈辱。劣等感。体の痛み……心の痛み。そこにはあまりにも複雑な感情がゆらめいている。


 彼女は振り絞るように言う。


「あんたみたいに恵まれたやつには、わかりっこない……。泥だらけのパンをありがたがって食べる人間の気持ちなんて……そんなものさえ簡単には手に入れられない、つまはじきにされた人間の気持ちなんて。誰かから物や家畜みたいに扱われて、悪いことしてないのに殴られて、勝手に売り物にされる側の人間の気持ちなんて……絶対に……絶対に……」


「……そうでもないよ」


 僕は思わず反論していた。


 が、その直後、それが取り返しがつかない失言だったことに気づく。まるで自分で自分を撃ったようなものだった。こうなっては、説明するより他はない――どうして僕が“そうでもない”のか。


 サーナは僕を見ている。


 彼女が何かを言おうとする。


 僕はそれを遮るように俯いて、左手に嵌めていた薄い手袋を外す。


 そして、手の甲を彼女に見せた。


「これがなんだかわかる?」


 一角欠けた六芒星のような図柄。“SOLED”という文字と、それに続く“1211”という数字。それはインクや炭によって書かれたものではない、


「……焼き印?」とサーナは言った。


「そう。酪農家で飼われてる牛や豚のお尻にあるのと、同じものだ」


「どうしてあんたにそんなのがあるの?」


 ……上手く説明できる自信はなかった。あれからもう6・7年くらい経っているけれど、レイケイ先生を除いて自分からこの痕を他人に見せるのは初めてだった。


 出来ればこのまま一生、誰にも知られたくなかったが。


 どうしようもなく、躊躇しながら、迷いながら、


「一番最初の記憶は、この手に押し付けられた焼きごての熱さだった」と僕は言った。

 

 

          ▽    ▽    ▽

 


 ――ゼフリス、って地方を知ってるかな。ここからずっと西の、旧マルセア国のはずれなんだけど。


 とにかくそのへんが、僕の出身地らしい。でも本当かどうかはわからない。誕生日もわからないし、名前だって適当。もちろん両親のことも覚えてない。ま、孤児なんてだいたいそんなものだけど。


 僕が生まれてすぐのころ、ゼフリスの国境沿いは戦場になってたらしい。村がいくつも焼けて、孤児や難民がたくさん出てね。だから行き場のなくなった子供たちは、人買いたちの良い商売のタネだったんだ。当時は子供の労働を制限する法律もなかったし、人身売買への取り締まりも緩くて、今よりずっと横行していたらしい。


 僕らが飼われていたのは大きな農園だった。


 僕ら、っていうのは、あの農園には僕以外にもたくさんの子供がいたから。あそこにいたころは数の数え方さえ知らなかったから、何人いたのかはちゃんと覚えてない。でも、30人より少なかったことはないと思う。


 彼らの――いや、僕らの手の甲には、みんなこれと同じ焼き印があった。その意味では、僕らは兄弟みたいなものだったんじゃないかな。


 農園はすごく広かった。子供の足じゃ端から端まで何時間もかかるような畑が、棘だらけの鉄線の柵で区切られていてね。僕たちはバケツを抱えて、列になって、畑を何往復もして作物に水を捲くんだ。他にも雑草を毟ったりとか、葉についた虫を取ったりとか、たい肥を運んだりとか、トゲトゲの葉っぱや紅色の小さな木の実を収穫したりとか……そういうことを、僕らはずっとやらされていた。日が昇ってから、沈むまで、ずっとね。


 当たり前だけど、農園には大人もいてね。僕ら10人くらいのグループに対して、大人がひとりついているのがいつもだった。彼らはバケツの代わりに鞭や棒を持っていた。もちろん僕たちに言うことを聞かせるためのものだ。本当は、僕らが逃げようとしたときとか、逆らおうとしたときにそれを使うんだけど……信じられないことに、大人たちはときどき、何もしてない兄弟を手にした武器でぶん殴ったんだ。しかもそういうときに限って、罰を与えるときよりもいっそう強くね。僕たちはいつも疲れてへとへとだったから、そのまま二度と動かなくなっちゃう子も、珍しくなかった。


 身を削るような労働と暴力で、僕の兄たちはどんどん死んでいった。兄っていうのは、僕より先にいた奴隷の子たちって意味だけど。農園に長くいればいる子ほど身体が弱って、死にやすくなっていくみたいだった。僕らの中で一番大きい子でも、多分10歳にもなってなかったと思う。重労働なのにどうしてそんな小さくて非力な子ばかり使うのか、昔はわからなかったけど、あれはきっと、反抗されても怖くないからだったんだね。


 でも、兄弟が何人死んでも、その数が減ることは決してなかった。


 畑の真ん中には小屋があってね。そこには鍬とか鋤とかの農具といっしょに、火鉢と焼き鏝があったんだ。みんなで仕事をしている最中、そこから悲鳴が聞こえると、ああ、新しい兄弟が来たんだな、って思うんだよ。

 

 古い兄弟が死んで、新しい兄弟がやってくる。順番に、順番に。まるであらかじめ決められていたみたいに順番に。


 だから、いずれ僕の番がくることはわかったし、実際にそのとおりになった。


 ある秋の、急に寒くなったと思った次の日、僕はぜんぜん動けなくなった。身体がすごく熱くて、息をするのも辛くて、起き上がることすら出来なくて――そのとき、……ああ、僕の番が来たんだ、って思ったんだよ。


 このまま動けなかったら、今は熱い身体がすぐに冷たくなる。そうしたら、いなくなった他の兄弟たちみたいに、裏にあるウナギの生簀に投げ込まれることになる。


 でも、別にそれでいいと思った。


 だって、あのときの僕にとって世界はそういうものだったから。“順番”はとにかく絶対で、守らなくちゃいけないものだったから。たくさんのウナギに齧られるのは怖かったけど、でも、そうしたらもう働かされなくて済むし、鞭で叩かれることも無くなる。だったら、そんなに悪くないかなって思えたんだ。


 あのとき、僕はたぶん、一度死んでいたんだと思う。


 ここから先はあとで聞いた話なんだけど、あの農場で栽培してたのは麻薬の材料になる植物だったらしい。麻薬栽培は大陸の協定で禁止されていたけれど、あの農場は休戦状態の都市国家同盟との緩衝地帯にあったせいでなかなか取り締まれなかったんだって。


 農場はマフィアの資金源のひとつだった。そして、それを潰したのは対立する別のマフィアだった。直接農場を攻撃したのは、ワイロとコネで動かされた軍の一部隊らしいけど。


 まあ、とにかく、新聞にはマルセア方面軍が都市国家同盟の監視のもと、あの農場で演習をやったってことが載ったはずだ。


 奴隷使いたちは殺された。ケシの畑は焼かれた。子供たちは保護され、孤児院に引き取られていき、めでたしめでたし。彼らの行く末にみなしごの聖者ディメニアの加護よあれ――と、あの農場にまつわる話の顛末は、そういうことになっている。


 けど、中には重症で動けない子供もいた。孤児院に送る馬車にも乗せられないほど衰弱した子供が。だから部隊の従軍医として協力していた民間の医師が、その子供の面倒を任された……いや、押し付けられたんだ。


 まあ、その子供っていうのが僕で、民間の医師っていうのはあの診療所のオーナーであるレイケイ先生なんだけどね。


 治療のおかげで、僕はすぐに回復した。そして行き場の無かった僕のことを、先生は見習いとして迎えてくれたんだ。助手は必要だったけど、大学で中途半端に勉強した免許持ちを雇うよりは自分でいちから育てたほうが面倒だが安上がりだって、先生は言ってたっけ。


 僕にしてみれば、理由はなんでもよかった。先生のおかげで僕はたくさんのことを知ることが出来た。読み書きや計算。挨拶の仕方。ランプの点け方。ナイフとフォークの持ち方。お金の存在。アーヴィタリスという街のこと。今まで絶対だと思っていた有刺鉄線の中の農場せかい順番ルールが、ほんとは大きな間違いだったってこと。


 それから人の身体の構造しくみと、その治し方。 必死になって勉強したし、必死になって仕事を覚えた。一日中働きっぱなしであることには変わりなかったけど、それまでとはぜんぜん違った。子供のまま使い潰すように働かされてた農場と違って、診療所では、成長して一人前の大人になるために働かせてもらっているから。


 うん……サーナのいうとおり、今の僕が、どれだけ恵まれているのかわかってる。


 でも、この左手と血のつながらない兄弟たちにかけて。悪いことしてないのに殴られたり、勝手に売り物にされるっていうのがどういうことなのかも、わかってるつもりだよ――……

 

 

          ▽    ▽    ▽


 長い昔話のあいだ、サーナは腰を下ろしたまま壁に寄りかかり、こちらの言葉にじっと耳を傾けていた。


 これで話は終わり。と言う代わりに、僕は手袋を嵌めて焼き印を隠す。


 ……ときどき、あの農場のことを夢に見る。汗びっしょりになって飛び起きて、自分が寝ていた場所が診療所の地下であることにほっとして、そのぼんやりした頭で、あれは全部悪い夢だったのではないかと思ったりする。


 そんなことはない、と――トゥエル・ジャックにとって世界の始まりはあの農場なのだと、この焼き印はいつも教えてくれる。むしろ夢みたいなのは、診療所での充実した日々のほうなのだと……。


「ごめん。長話しちゃって。つまんなかったよね。……えっと……」


 謝ってはみたものの、彼女を連れ帰るための説得は思いつけないままだった。それどころか今の僕は、忘れたい過去の記憶を無理に引き出したせいで、頭を働かせるための気力がごっそりと失われているような状態だった。


 夜光蟲が軒下に止まり、大きな翅から青い光がこぼれる。路地の闇が少しだけ薄まり、被った毛布の隙間からこちらを窺っているサーナと目が合う。……どちらともなく視線を逸らす。顔を背けた先にいた黒猫と今度は目が合って、金の瞳を瞬かせた猫はレンガの塀の上を音もなく走っていった。


「……ひとつ、こっちの頼みを聞いてくれたら」ややあって、サーナが口を開いた。「そうしたら、あんたの言うとおりにしてもいいわ」


「……それは、どんな?」


 と僕は尋ねた。出来る限りのことはするつもりだったけど、でもドロボウを探して捕まえるのは不可能だし、そうなると僕に出来ることなんて、ほとんどないと思えた。


 サーナは反対側の路地の闇を見つめるようにして、こう言った。


「……連れてってほしい場所があるの」 と。

 


          ▽    ▽    ▽

 


 それから三十分ほど、僕とサーナは夜の街を歩き続けた。


 カルゼン地区の靴底通りからヌリアの貧民窟へ。サーナは僕の肩に掴まり、ときおり休みを挟みながらも、決して弱音を吐くことなく足を動かした。


 本音を言うなら、すぐにでも診療所に戻りたかった――ただでさえこの辺の夜道は安全ではないうえ、傍らに感じる彼女の身体は間違いなく37度前半の熱を帯びていたのだ。けれど今の僕は彼女の杖だった。「お礼参りしに行くわけじゃないから」という彼女の言葉を信用し、僕はサーナの頼みを聞くことにしたのだ。「……ええ、あんたの推測通りよ」と彼女は言った。「私は人を待たせているの」まるで何かを観念したような、平坦な声音で。


 そうして歩き続け、たどり着いた先は、貧民窟を貫くように勧められている架線工事の作業現場だった。


 左右には有り合せの木や布で造ったテントや小屋がどっちゃりと並んでいるのに、そこだけはずっと東の区画からこちら側まで、幅20メートルほどのまっすぐな更地になっている。まるで巨大な剣で街を切ったかのようだ。


 サーナが目指していたのは、その少し先の、これから壊されるであろう小さな家のひとつだった。外観からしてぼろぼろで、人の住んでいる様子もない。架線予定地の上にある家々はすでに立ち退き済みなのだろう。


 だが、その壁を見て僕はぎょっとした。半ば崩れかかったレンガと漆喰の壁に黒いペンキで描かれた大きな逆さ髑髏――これはこの家で、業病の患者が出た印だ。


 髑髏の絵に睨まれた僕が思わず立ち止まると、サーナはこちらの肩から手を離し、吸い込まれるようにその空き家に忍び込んだ。僕も慌てて彼女を追った。


 中も外観と同じく荒れている。床には壊れた机や木箱、空き缶などが散らばっており、天井や壁の穴からは蟲の翅の光が点滅するように差し込んでいた。


「――……」


 サーナは囁くような声で誰かの名を呼んだ。


 しかし、返事はなかった。彼女の声は薄闇に溶けて消えた。


 空き家には二部屋しかなく、家具もほとんど持ち出されており、人が隠れられるようなところはなかった。いや、そもそもあの逆さ髑髏を見た時点で、普通の市民なら立ち入ることを躊躇うはずだ。


 サーナはよろめきながら部屋を横切り、壁に手をついて、そこにかけてあった茣蓙をはずした。


 ……何もない。 そこに誰もいないことは、きっとサーナもわかっていたんだと思う。人の気配はなかったし、壁と茣蓙のあいだには子供ひとりぶんの隙間もなかったから。


 でも、サーナはしばらくその壁を見下ろしていた。


 何かを待つような数分間。


 何かを受け入れるような数分間。


 ――それから彼女は疲れたように、床にぺたりと腰を下ろした。ずっと張り詰めてきた何かが切れてしまったみたいなその力の無い背中は、まるで僕よりも一回り小さくなってしまったようですらあった。もう二度と、彼女が立ち上がることはないのではないかと、そんなふうにさえ思われた。


「……レルエッタ、っていう名前でね」


 僕に背を向けたまま、彼女は顔を上げ、言った。どこか明るい、さっぱりとした口調で。


「この街の外から人買いに連れてこられた子でさ。たぶん、どっかイイトコのお嬢さんか何かだったんだと思う。着てるのはボロだったけど、肌もすべすべて、金色の髪もすごく綺麗でね。歳は10歳にもなってなかったかな。臆病で、泣き虫で、甘ったれで、見てるとなんだかすごくイライラして――ま、あんたに対してほどじゃないけどね。
 それで、あの子、私が人買いから逃げるときに勝手についてきて……ううん。ちょっとした気の迷いで、私が連れてきちゃったってだけなんだけどさ。別に友達とか仲間とか、あんたの言ってた血の繋がらない兄弟とか、そういうんじゃ全然なかったんだけど」


 煤とホコリだらけの床を指でなぞりながら、サーナは独白のような呟きを続ける。


「ま、あれからもう5日も経ってるし……ここに来たのは、あの子がもういないことを確認するためってのが半分くらいかな。……もう半分は、ぶっちゃけ言うと――ここで餓死した死体と再会することになるんじゃないか、って、そう思ってたわ。
 あの子、一人で知らない街に出て行けるような勇気があるような子じゃなかったし、いないってことは、きっと誰かに連れてかれたのね。
 ま、私と違ってマトモな身体なわけだし。髪はなくなっちゃったけど顔は綺麗な子だったし。娼館にでも売っ払われたなら、あんたみたいに使い捨て前提の奴隷働きをさせられることもないでしょうよ。……そうね。きっと飢え死になんかするよりは、そっちのほうがよっぽど良かった、って、――……」


 落書きするみたいに床をなぞっていたサーナの指が、ふと止まった。


 彼女は震える手で、そこから何かを摘みあげるしぐさをした。


 崩れかけた天井の穴から蟲の光が瞬く。そして、彼女が手にしているものが僕の眼にも映った――それはごく細く、長い、そして金色にきらめく、誰かの髪の毛だった。


「う、……う……ッ、」


 嗚咽。


「――ごめんッ……、ごめんね、レルエッタ……!」


 そして、サーナは崩れた。

 

「あのお金……、あんたの髪を売って作った、あんたのお金……だったのにっ……! ごめんね。ほんとにごめん……ううん、ごめんじゃすまないよね。盗られたじゃ、収まらないよね……っ。あの、あんたのお金……あれだけあれば、あんたはもう少しくらい、誰の食い物にもされずにいられたのに……!」


 それはもう、独白などではなかった。


 サーナはここにいるはずだった誰かに――彼女が守れなかった誰かに、ひたすらに謝り続けた。


「私が、私が悪いんだ。私の物が盗られるってんなら、それはしょうがないのかも知れない……だって私は、誰かのお金や食べ物をたくさん盗んで生きてきたから。……でも、でもそんなこと、レルエッタとは何の関係もなかったのに。あの子にはあれしか、あのお金しかなかったのに……。
 そうだ、悪いのは私だ。私が間抜けだったからいけないんだ。あんな大金を持って、あんなに無防備に歩いてしまって……。自分がだってこと、私は嫌ってくらいわかってたはずなのに。私はずっと、ひとりで生きてかなきゃいけないはずなのに……もう、……もうちょっとだけ、レルエッタと、一緒にいたいだなんて、そんなこと、思ってしまったせいで……」


 泥だらけのパンと、たった一本の髪を抱えて、彼女はいつまでも泣き続けた。


 喉を震わせてむせぶその背中を見つめているうち、僕は理解できてしまった。どうしてサーナがずっと怒ったような顔をしていたのかを――それはきっと、きっとそうでもしないと、涙が止まらなくなってしまうからなのだ。……今みたいに。


 僕はただ黙って、彼女の気持ちが落ち着くのを待った。


 ――読み書きや計算。ランプの点け方。レイケイ先生の下で僕が学んだいくつもの大切なこと。そのひとつに、人間は人間の死を悲しむ生き物だ、ということがある。それは今にしてみればごく当たり前のことだけど、あの監視された農場ではそんなものはなかった。兄弟といっても遊んだ試しさえなかったし、ろくに言葉も知らない子供だって珍しくなくて、僕らは互いを深く知りあうことすら出来なかった。肩を並べて働く兄弟たちはいずれ欠け、入れ替わっていくものであり、そこに余計な感情を持つことも出来ないくらい、僕たちはいつも疲れきっていたのだ。


 でも、そんな閉じた世界は破壊され、忌まわしいただの過去になった。


 医師の見習いをするようになって最初に知ったのは、医師がどんなに手を尽くそうとも、人間は最後には必ず死ぬということだった。


 冷え切った母親の骸にすがりつく小さな子どもたち。


 先立たれた息子の骸の前で言葉もなく絶望する老人。


 まだ未熟な僕が彼らの流す涙にどれだけ心を動かされたか、そして、どれだけ己の無力さを呪ったかは計り知れない。でも医師というものは、遺族たちにとって一生に何度もないような悲しい出来事に、まるで日常茶飯事のように付き添わなくちゃいけないのだ。


 レイケイ先生は、そのうち慣れると言っていた。大人になれば情に流されることなく、涙を流すこともなく、必要なことだけ適切に処理出来るようになると。


 残念ながら、僕はまだ大人になりきれていない。感情を殺せていない。謝りながら泣き伏すサーナの背中を見て、心を動かさずにはいられない。


 いつかきっと、僕は大人になるだろう。いつかきっと、感情を殺すことが出来るようになるだろう。倒れている誰かを見過ごすことが出来るようになるだろう。贔屓などしない、常に自分を万全の状態に置く、良い医者になれるだろう。


 いつかきっと、僕の心も死ぬのだろう。


 でも、まだ。


 今は、まだ……


「レルエッタって言ったっけ、その子」


 泣き疲れたようにうつむく彼女に向け、僕は言った。


「探すの、手伝うよ。サーナ」



 今はまだ、大人になるのはもう少し、先のことにしておきたい。

 

 

 

(第15回につづく → http://p.booklog.jp/book/102115/read) 

 


この本の内容は以上です。


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