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Scene13      ――サナ

 

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    13

 

 

 服を脱げ、と言われた。


「――は?」


 何を言ってるんだお前は、という怒りを篭めて私は目の前の少年を睨む。白衣に手袋に半ズボンというおかしな出で立ちのこいつ――トゥエル・ジャックとかいう名前のガキは、平然とした顔でこう続けた。


「だってサーナ、寝汗掻いちゃってるでしょう。湿布も包帯も換えなくちゃいけないし」


「……っ」


 ごぅ、と頭に血が昇る音がした。


 ただでさえこっちは寝起きで機嫌が悪いうえ、身体が思うように動かなくて苛ついてるというのに。この馬鹿は、一体何を言い出すのか。


「嫌よ。そんなの自分でやるわよ。余計なおせっかいしないで、あんたはその湿布と包帯を置いてきゃいいの。それともそんなに私のハダカが見たいの、このスケベガキ」


 少しでも想像してもらえば共感もしてもらえると思うのだけど、私は私の裸というものにコンプレックスがある。どこもかしこもすべすべなレルエッタのことを引き合いに出すまでも無く、そう、たとえば繁華街の奥まった店の入り口で、通りかかった男の腕を引く着飾った女のひとたち――彼女たちが纏うような裾が短くて胸元もはだけた綺麗な服を私が着たら、それはとても、とてもひどい見世物になってしまうだろう。たとえ着古したボロ布だとしても、この裾の長い服は、私にとって他人の視線から身を守るための大切な鎧なのだ。


 ……ところでいま気づいたのだけど、この服、こんなとこに縫い痕なんてなかったはずだし、記憶にあるものよりもだいぶ綺麗になってる気がするんだけど……


「あ、それ洗ったから」


 トゥエルのやつはやっぱり平然とした面持ちで言った。


「……、」


 私は黙って、ベッドに投げ出したままの自分の身体に視線を下ろした。


 ……なにやらふと疑問が沸いたのだけど、いつのまにやら腕や足や胸に巻かれた包帯や貼り付けられた湿布、これらはいったん服を脱がせてからではないと無理なはずで、では一体どこのどいつが……


「それに気にしなくっていいよ。僕なら慣れてるから。だって患者さんの半分は女の人だし、サーナの裸だって、最初に手術するときに――」


 私の右手のひらは金属の面積が広い。ちょっと錆びてるけど、言ってみれば生まれながらに鉄製の篭手を嵌めているようなものだ。よって、


 ――ぱあん!


 スナップを利かせたこの手で彼の平然とした頬っぺたをひっぱたいてやると、それはそれは良い音がしたのである。

 




 いらいらしてる。すごく。


 その日の昼にトゥエルが盆に載せて持ってきたのはコーンスープとフレンチトーストだった。トーストに使われているパンはオートやライ麦の入っていない白パンで、あまつさえ、軽い焦げ目のついた表面にはひとすくいの蜂蜜が垂らしてあった。それは信じられないくらい甘くて、バターのいいにおいが口の中に広がって、飢えに任せてとすぐになくなってしまった。空になった皿の底にはパンくずの浮いた牛乳が残った。それを見てようやく気づいたけれど、どうやらこのフレンチトーストは多めに牛乳を使って、やわらかく作ってあったらしい。


 昨日はお粥しか喉を通らなかった、私のために。

 

 



 いらいらしてる。すごく。

 

 意識がはっきりしてすぐにわかったことだけど、この地下室はトゥエルの寝室でもあるようだった。あいつは朝から晩まで上の診療所で働いて、夜遅くになるとここに戻ってくる。そしてベッドは私が占領しているので、あいつは部屋を仕切る大きな棚の向こう側に毛布を重ねて敷いて寝ている。


 時刻は深夜。


 壁のロウソクは消され、蓄光塗料の塗られた階段の手すりが幽霊の腕のように薄ぼんやりと闇の中に浮かび上がっている。昼のあいだじゅう上の階から聞こえ続ける、待合室の患者たちのさざめきのような雑談の声もいまはなく、少し離れた棚の向こうから、すぅすぅ、という規則正しい寝息だけが聞こえてきている。 そして私はというと、昼間に寝すぎたせいで、目が冴えて眠れない。

 

 



 いらいらしてる。すごく。


 トゥエル・ジャックとかいう名前の医師見習いのガキは、地下室で臥せっているだけの私に対して、なんと日に三度も食事を持ってくる。それも湯気がのぼる出来立てのお粥や、コーンスープとフレンチトーストや、白身魚の挟まったサンドイッチや、虫食いのないリンゴを使ったパイや、貧民窟の“クズ煮込み”とは比べ物にならない本物のシチューなどを。


 寝て、起きて、食べて、また寝る。身体はちょっとじゃ済まないくらい痛かったけど、この暮らしは私が想像する貴族の生活そのままだ。それを素晴らしいと思ってしまったり、あいつが持ってくる次の食事を待ち遠しく感じたりしてしまう、そんな自分の浅ましさに仰天する。魚屋のおこぼれに運良くありつけた痩せの野良猫のほうが、まだプライドというものがあるだろうに。


 ただ――屋台から盗んできたり、泥棒してきたお金で買ってきた食べ物を人目につかない場所でこそこそ掻きこむのと、自分のために誰かが作ったあたたかい食事をゆっくり噛み締めるでは大きな違いがあるというのは、否定しようのない事実だった。

 




 むずむずしてる。首筋が。


 私は痛みを堪えながら身体を起こした。原因は汗疹でも錆の粉でもない。首にぶらさげてみた、新しい革紐のせいだ。


 紐の太さは5ミリくらい、長さは50センチくらい。素材はたぶん牛じゃなくて馬。使い込んだ革の加工品につきもののひび割れがまったく無いことを除いて、それはごくありふれた単なる紐に過ぎない。


 紐は先端同士で片結びにしてあり、輪っかになって私の首にかかっている。その革紐の輪にはもうひとつの小さな輪っかが通してある。親指とひとさし指で作った円と同じくらいの、小さな鉄の輪だ。


 装飾品などと呼ぶのはおこがましい。宝石などが嵌っている筈もなければ、花や動物の形に細工されているわけでもない。鎖のひとかけらのような、ただの鉄製の楕円。


 どうしてこんなものを持っているのか。


 わからない――物心ついたときから、これは私の手元にある。


 どうしてこんなものを手放さないでいるのか。


 簡単だ――売ろうとしたって、一ルグほどの価値もないから。質屋や屑屋に持っていったとしても、面倒そうな顔で門前払いされるのがオチだから。


 そうして売ることもできず、ずっと長いこと身に着けてきたせいで、いまさら捨てるのも難くなっている。それに服も靴も盗んで済ませてきた私にとって、これは唯一“自分のもの”といえる品なのだ。


 私は革紐を首から外し、地下室のろうそくの明かりに照らすようにして、悲しい気持ちでその鉄の輪を眺めた。


 ごくごく見慣れたものであるはずのそれは、今はなんだか、とてもよく似た知らないもののように見える。当たり前だ。これまで十年以上も吊るすのに使っていた古い革紐が、勝手に新しいものに交換されてしまったのだから――あの馬鹿のお節介のせいで。


「――え、だって、切れちゃってたし。もうボロボロだったし。止血用の紐がちょうど良さそうだったから、変えておいたんだ」


 意識が戻った日の翌日、トゥエルは何でもないような顔をして私にペンダントを差し出した。


 確かにボロボロだったし、何度も切れて何度も結び直した古い紐は、私以外の人間にはゴミ以外にしか見えなかったかもしれない。でも、


「……それで、前の紐はどうしたの」


「捨てちゃったけど。駄目だった?」


 でもあれは、私にとっては鉄の輪と同じくらい愛着のあるものだったのに。


 それがもうなくなってしまったかと思うと、なんだか無性に苛立たしくなって、私はまたあいつの頬を引っぱたいた。

 

 


 いらいらしてる。すごく。


 いくら身体が弱っているとはいえ、人間何十時間も寝てばかりいられるものではない。かといって傍らの屎尿桶で用を足そうとするだけで意識を失いかけるのでは、今どこにいるとも知れないあのチンピラどもを殺しに行くのは不可能だった。


 だから眠れないあいだは、私はいらいらとしながら暖炉の煤で黒ずんだ天井を見上げている。


 今日の朝飯は蒸し芋にソーセージに野菜のスープだった。拳大のじゃがいもをふたつも平らげたせいで、胃袋が膨れているのを感じる。


 身体は動かず、しかし飢え死にを心配する必要はない。こうなると、私は途端にどうすればいいのかわからなくなってしまう。自覚せずにはいられない――普段の自分の思考が、いかにその日の糧をどうやって得るかで塗りつぶされているのか。


 貴族うんぬんは別にしても、こんなふうに、自分で食べ物を調達しなくても飢え死にしないという環境はいったいいつ以来だろう。 私は親の顔を覚えていないし、それどころか名前すら知らない。理由は知らないが、彼らとは物心つくずっと以前に離れ離れになった。


 だけど……私は、私の母親が加工生命グラフトロイドだったと確信している。


 加工生命は後天的に手術をされて形質を追加される場合とその親から生まれた子供が先天的に引き継いでいる場合がある、らしい。たとえば耳長の加工生命が子供を作ればその子供も耳名がで生まれる可能性があるし、獣のような爪を持った加工生命ならばその子供も以下同文だ。 私は右手のひらを意味もなく掲げる。普通の人間と変わらない皮膚と、赤く錆びた金属の皮膚のまだら。母の顔も声もまったく覚えていないが、私の場合は母からこの皮膚を受け継いでいる、つまり“先天的”のほうだ。手術をされたという記憶はないし、物心が付いたときにはもうこんな皮膚をしていたし(錆びている部分は今より少なかったはずだけど)、――それに何より、私のいちばん古い記憶がそういっている。


 私のいちばん古い記憶。それは多分、最初の歯が生えたか生えないかくらい幼いの頃のものだ。


 生物とは不思議なもので、哺乳類の赤ん坊は誰に教えられるわけでもないのに母親の乳房に吸い付こうとする。きっと当時の私も本能的に母乳を求め、剥きだしになった母の胸に吸い付こうとしたのだろう。そして――。直後にやってきた、固い硬い皮膚によって跳ね返される痛みに似た感触。その瞬間を、私の脳はまるで冷たい閃光のように記憶している。


 私にとって唯一の母親の思い出は、優しい声でも甘いニオイなどでもない……ただ、唇に残った固くて冷たい感触だけだ。


 ところで二番目の記憶は何かというと、これがいきなり曖昧になる。

 

 場面はともかく間違いなくいえるのは、少なくとも四歳くらいまでには、私は自分でお金を稼ぐようになっていたということである。もちろん今みたいにコソ泥をしていたわけではない。物心ついたとき、私の身柄を保持していたのはしわくちゃの老女たちだった。赤毛の婆と白髪の婆、彼女たちはもともと同じ店で働いていた娼婦らしくて、本当だとするなら身請けされたわけでもない元娼婦がそんな長生きをするのは珍しいことなのだが、もちろん当時の私はそんなこと知らなかった。


 ただ疑問に感じていたのは、どうして婆たちは私に首輪をつけて、知らない人の目の前で服を脱がせて、固いほうの皮膚にやすりをかけたり小さな金槌でカンカン叩いたりするんだろう、ということくらいである。


 当時私たちが暮らしていたコーレルの闇市場は闇市場のくせにわりと開放的で、怖い物見たさにやってくる一般人がかなりの数存在していた。そうした客どもを迎えるために、全長百メートルもないコーレルの悪霊通りにはいかがわしい店が海岸のフジツボのようにびっしりとひしめいていた――たとえば様々な趣味に応じる娼館、様々な効果を唄う薬売り、様々な英雄や勇者たちの伝説の武器(の偽物)、そして、様々な芸事を披露する見世物小屋だとか。


 要するに、あのころの私はそんな見世物小屋の出し物のひとつだったってわけだ。


 冷静にあのころのことを思い出そうとするとなかなかおぞましい気持ちになるのだが、しかし婆たちを恨んだり憎んだりするような感情は、実は私の中にはぜんぜん見つけることが出来ない。もちろん再び他人の好奇の視線に晒されるような境遇に堕ちたいかと聞かれたら真っ平ごめんだけど、少なくとも、婆たちといるときには餓死する恐怖を感じたことはなかったから。


 赤毛の婆と白髪の婆は私のことを可愛がりはしなかったが、傷つけたり虐げたりするようなことも絶対になかった。金槌で叩くときは加減してくれていたおかげであまり痛くなかったし、紙やすりで磨かれるのはむしろ結構気持ち良かったりした。


 これは主観混じりの推測に過ぎないけれど、彼女たちは何の縁もない私を商売道具にすることに罪悪感を覚えていたのではないかと思っている。“仕事”がうまくいった日の夜、貸本屋で借りてきた童話を読み聞かせてくれたのは、きっと彼女たちなりの罪滅ぼしだったのだ。小さくて何も知らなかった私は、その時間をとても喜んだから。 そんな生活は、私が八歳か九歳くらいのころに唐突に終わった。


 ある夏の夜、悪霊通りのどこかの店から火が出た。木造の粗末な建物が密集していた悪霊通りは瞬く間に炎に包まれたという。私の住んでいた小さな長屋はまさにその一角だった。扉や壁の隙間から忍び込んできた煙が部屋の中に満ちていく恐怖は、今でも容易に思い出すことが出来る――しかもあのとき、私の首はまだ鎖に繋がったままだった。


 振り返ってみると、自分でもよくあのとき生き延びたものだと思う。隣の部屋で寝ていた婆たちは煙で窒息して、結局助からなかったのに。


 そうして婆たちと死に別れて以降は、私はずっと自分ひとりだけで生きている。


 正直言うなら、誰かとつるんだりすることは考えないでもなかった――でも自分の身体が他のひとたちとは違うこと、気味悪がられること、上品ぶりたがる大人には決して受け入れられないことくらいはその頃にはどうにか理解できていたし、実際その通りであるということを、私は数えきれない痛みによって学んでいった。それどころか、貧民窟によくいる浮浪児たちのグループからだって私は態のいい迫害の的だった。


 触れた金属を壊せるという、錠前破りにはもってこいの“ちから”が具わって無かったら、きっと一週間も持たずに野垂れ死んでいたに違いあるまい。


 こんなおかしな身体に生まれてしまったことを嘆いた時期もあったけど、いまの私は、それを当然のものと受け止めている。いくら悲劇のヒロインを気取ったところでこの皮膚が生え変わるわけじゃないし、物語に出てくるような勇者サマも現実には助けに来てくれない。それに繰り返しになるけれど、私ひとりで生きるのは餓死しないようにするのが精一杯で、いつまでもぐじぐじ思い悩んでいるような贅沢な余裕はなかったのだ。


 餓え以外にも渇きに寒さに病気、もっとありふれた殴る蹴るの暴力。たった14年かそこらの人生でも死ぬと思ったことは何度もあったけれど、どうやら私には悪運が味方しているようで、火事に見舞われても銃で撃たれても何故かギリギリのところで生き延びてしまってきた。


 このぶんだとひょっとしたら、思いのほか長く生きることになるのかも知れない。


 ……でも、たとえ寿命があと百年あったとしたって……私はその百年間、ずっと自分ひとりだけで生きていくのだろう。 ほんの少しの望みがあるとしたら、同じような金属の皮膚を持つ加工生命と出逢うことだ。そうしたらこの孤立も解消されるかも知れない。だけど、万が一私と同じようなご同輩がこの街に生息していたとしたって、そいつは私と同じように極力他者との関わりを避けるように生きているはずであり、そんな奴と運良く出逢って運良く打ち解けるなんて可能性こと、もはやどれくらいの偶然を積み重ねれば良いのかもはや判らなかった。


 ならばきっと、私はこれから先も、ずっと自分ひとりだけで生きていくのだ。


 だっていうのに――……

 




 いらいらする。すごく。


「ねえ、サーナは誰か連絡を取っておきたい人っていないの? あるいは、いきなりいなくなっちゃって心配してそうな人とかはさ? まだしばらく動けないんだから、教えてくれれば僕が伝言してくるよ」


 澄ましたツラが気に食わない。何の皮肉も無くそんな質問をしてくるトゥエル・ジャックの頬をこの硬い手のひらでもう一発、いや、二発でも三発でもひっぱたいてやりたい。もし身体が自由に動くんだったら、本当にそうしていたことだろう。


 苛立ちを隠すこともなく、私は答えた。


「そんなやついないわ。いま私が会いたいのは、私をこんな目に遭わせたやつらだけよ。盗まれたものを取り返して、ついでにちょっと復讐してやらなくちゃ収まりがつかないんだから」


「盗まれたもの……って?」


「……。お金よ」


 他に何も思いつかなくて、私はつい本当のことを教えてしまう。するとトゥエルは慌てたように身を乗り出して、


「そんな、だって、“やつら”ってことは相手は複数だったんでしょう? 路上で強盗するような人たちからお金を取り返そうだなんて危ないにもほどがある――ただでさえそんな大怪我してるっていうのに。今度こそ死んじゃうよ」


「……余計なお世話よ」


「それに、言いにくいけど……盗られたお金だって、きっと今頃はぜんぶ使われちゃってるよ。戻ってこないもののために命を捨てるなんて馬鹿げてる。残念だけど、盗られたお金のことは諦めて――……」


「――うるさい! 適当なこと言うな!」


 私は寝転がって壁のほうを向き、トゥエルのまっすぐな視線から逃れる。 いらいらしてたまらない。……くやしいことに、こいつの意見は適当どころか一から十まで真実だ。盗まれたお金は景気良く使われてしまってるだろうし、この体調では寝込みを襲ったとしたって半分くらいの確率で返り討ちにあうだろう。そんなことは、わかっているのだ。


 ……だとしても。


「ごめん、サーナ……。でも、僕は」「もう黙ってて。あんたには、何もわからないんだから」


 私は冷たく拒絶の意志を送った。トゥエルの馬鹿はしばらくまごついていて、くだらない発言をさらに続けようとしている気配が背中に伝わってきたけれど、私が取り合わないでいると結局、午後の診療へ向かうために階段を登っていった。

 

 私は寝転がったまま右手を掲げ、苛立ち混じりにそれを自分の首筋に振り下ろす。――。金属同士のぶつかり合った音が地下室に響く。


 あいつには絶対わかるまい。私より年下なくせしていろんなことを知っていて、毎日毎日まっとうに働いて、自分の寝床と呼べるものを持っていて、盗んだ食べ物をこそこそ齧ったりしたこともなさそうで、いずれ誰に恥じることもない立派な大人になるであろうあいつには、一番最初の記憶が鋼で覆われた乳房の感触である私の気持ちなど――生まれたときから社会の枠の外に置かれた人間の身の上など、絶対にわかるまい。


 そう――あのお金は必ず取り戻さなくちゃいけないことなど、あいつには絶対にわかるまい。


 私は痛みをこらえて、ゆっくりと身体を起こした。


 比較的思い通りに動く右腕を伸ばし、ベッドの傍らに置かれていた木製のポールを掴む。ポールの形状はコート掛けに似ていて、根元には十字型の足があり、大人の背丈くらいの頂点部分には鉤状のフックが取り付けられている。フックは塩水の入った瓶を吊るすためのもので、ゴム製のチューブを患者の腕と繋ぎ、体内に塩水を直接送り込むという仕組みになっているらしい。トゥエルはこの装置のことを“点滴”と呼んでいたか。


 まあ点滴だろうが天敵だろうがなんでもいい。瓶が取り外されているそのポールを引き寄せ、肩を預け、すがりつき、左足を慎重に地面につけ、私は数分をかけてようやく立ち上がる。


 身体中の打撲したところがずきずき疼く。眩暈を感じる。耳の中でごうごうと血の巡る音がする。


 それでも、立てた。


 ズタボロであることには変わりないけれど、意識が戻った三日前に比べればだいぶマシになっている。……はずだ。


 ならば、そろそろ頃合だ。


 早くも熱を帯び始めた自分の身体に喝を入れ、私は点滴のポールにすがってゆっくりと歩き始めた。

 

 

(第14回につづく → http://p.booklog.jp/book/102002/read


この本の内容は以上です。


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