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孝詞と結婚するために悪魔になるゆり子

ゆり子は恭子に孝詞の目に見えない浮気相手の存在について打ち明けてからも、やはり孝詞に対する疑心暗鬼、浮気相手への嫉妬心は消えるはずもなかった。孝詞のマンションで会って、甘い言葉を掛けられ合体しても、彼の体も精神も完全に自分のものではなく、どこかの変な女に騙され密会を続けているのではないかという疑いは、逝った時でさえ忘れる事はなかった。この大好きな彼の体を誰かが抱きしめているかと思うと、自分のしている行為で彼を喜ばせていることも唯一ではなく、常に孝詞に比較されているのではないかと思うと、心の中は平穏ではいられなかった。それでも、この前良い子を演じて許してしまった以上、また汚い嫉妬心で彼を罵るには、プライドが許さなかった。どうしたら、この黒雲のような意地悪な存在を、孝詞からはぎ取れるだろうかとゆり子はいつも考えていた。表面的にはおとなしいゆり子ではあるが、切れた時の怖さや、執念深さは尋常ではないようだ。

 

セックスが終わって服を着ていると、ゆり子の脳裏に、このウザったい問題を解決する一つの方法が見えてきた。

それは、実に単純で世間一般に良く行われている事であった。ゆり子は自分だけを見てもらうために、そしてゆくゆくは楽な生活をさせてもらうATMの役割も期待している魂胆からも、そのもやもやとした障害を排除するために決断したのである。その決断が間違いでないことを確認するために、ゆり子は孝詞の首に手を回してぶら下がるような恰好をして呟いた。

「孝詞さん、ゆり子の事好き?」

「勿論だよ」

「じゃあ、どのくらい好き?」

「世界一だよ」

と言って孝詞はゆり子に激しくディープキスをした。

ゆり子はまた、下半身が痺れていくような気がした。すると、ゆり子の手はまた孝詞の股間の方に伸びていく・・・・・・

 

2回目の行為の時には、ゆり子は自分の思いつきに手を叩きたくなるほど嬉しくなり、一回目の時とはまるで違う猥雑さで孝詞を責めた。そして孝詞とゆり子はあっけなく逝ってしまった。お互いが性器を綺麗にしていると、ゆり子は不敵な笑みを浮かべて、こう心の中で繰り返した。

『わざと妊娠してやる・・・・・・

そして孝詞にこう言った。

「今度、葛西の私の家に来る?今週末は両親が法事に出かけていて、誰もいないの。私の部屋を見せてあげるわ。どう?」

 孝詞は一瞬考える振りをした。そういえば今週末は恭子には逢えない。恭子にも用事が入っていたのである。

「じゃ、金曜日の夜に行くよ」

「ありがとう。嬉しい。楽しみだわ。あ、それにそんな時のためにコンドーム買っておくから、持って来なくて良いよ」

 孝詞は気の利くゆり子に礼を言うと、赤いトランクスを履いた。

 

 週末、孝詞はゆり子の実家を訪問した。駅から10分ほど歩くと、その建物が見えてきた。街灯の明かりを受けて、薄暗闇に真っ白な壁と赤い屋根が判別できる大きな家が、ゆり子の実家だった。先にゆり子が家の鍵を開けて中に入り、しばらくして玄関灯もつけないままでいるドアを静かに開けて、孝詞は家の中に入った。ゆり子の彼氏が泊まりに来ていることを、隣近所に見られたくなかったからである。見られれば、回りまわっていずれゆり子の両親の耳に入って、小言を言われるのが嫌だったのである。

 ゆり子の部屋は2階の南東向きの8畳の洋室である。窓際には可愛らしいピンクの花柄の掛けカバーが目立つベッドがあった。出窓には所狭しとぬいぐるみが置いてあった。孝詞の知らない動物のキャラクターも多く、何故かそのぬいぐるみたちから見られているような変な感覚があった。

 テーブルの上に缶ビールや焼酎の瓶を置いて、ゆり子と孝詞は飲み始めた。1時間ほど飲んで話し込んでいると、二人はすっかり赤い顔になった。

 孝詞とゆり子はふざけ合いながらシャワーを浴びると、また部屋に戻って飲み続けた。やがて、ディープキッスの応酬である。ディープキッスが終わると、二人とも獣のように相手の肉体のいろんなパーツを貪り始めている。

 ゆり子の喘ぎ声は恭子の声と違って、まるで子供の様なうめき声である。あるいは鳥の鳴き声にも似ているような気がする。孝詞はその声に心の中で苦笑したが、自分の下半身はそれに関係なく激しく勃起していることにも笑える気がした。だんだんと高揚してくる情欲が抑えきれないのか、もうゆり子の下半身にペニスをあてがおうとしている。

「コンドームある?」

 ゆり子は敏捷に白い衣装ダンスから、包装が薄紫色のコンドームを出してきた。このコンドームは、すでにゆり子が昨日針で穴を開けていたものである。しかも、今日、ゆり子は排卵日である。間違いなく命中する確率が高い。

 孝詞はいきり立ったペニスにそれを付けると、せっかちな子供のように快楽の園に突入した。ゴムを被った性器は、ゆり子の内部の襞の感触が全く感じられなかった。かなり酔っているせいもあるのだろうか。それでも、ゆり子の均整のとれた丸い臀部に手を当てていると、その柔らかさに情欲が高まっていくのが判る。ゆり子も挿入されると、子供の様なうめき声を孝詞のピストン運動に合わせて、断続的に部屋の中に響かせ始めた。

「ウッ、ウッ、ウッ・・・・・・

 しばらく、二人はまるで獣のように、鳥のように呻き合っていたが、ゆり子はもう我慢できないようだ。自分の膣の中に、コンドームの小さな穴から孝詞の精子が漏れ出て、見事に着床することを祈って、ゆり子はせがんだ。

「いっぱい出して、孝詞さん。私逝きそう」

「僕ももう駄目だ。逝くよ」

 二人はジャングルの中で叫ぶ獣のような声をあげて昇天した。昇天すると10秒ぐらい何も言葉を交わさなかった。やがて、現実の世界に意識が戻ったかのように、孝詞はジョークを言いながら、自分のまだ硬いままのものをゆっくりとゆり子の股の間から抜いた。抜くとコンドームの先の部分から、白い精子が漏れているのを孝詞は発見し声をあげた。

「あれ、このコンドームおかしいよ。穴が開いているのかな?」

 現実に引き戻されたことに、機嫌が悪くなったような振りをしてゆり子はこう言った。

「私が買ってきたコンドーム高かったのよ。漏れるはずがないでしょう?見せて。ああ、これくらいなら大丈夫よ。今日は排卵日でもないし・・・・・・

 その言葉は孝詞を安心させたようで、またジョークを連発している。行為後の白けたような雰囲気を、孝詞はいつもこうして笑い飛ばしている。ゆり子もそのジョークに屈託のない笑い声で応じている。心の中では、

『バレなかったようだわ。しめしめ。私が昨日のうちにゴムに穴を開けたなんて、夢にも思っていないようだわ。これで、着床OKになれば、浮気相手に勝利して夢の専業主婦になれるわ・・・・・・』

 ゆり子が自分の描くバラ色の未来に、ほくそ笑んでいるのを孝詞は気づかなかった。

ゆり子はそう思いながらも、本当はこんな事をしてはいけないし、孝詞が妊娠を望んでいないことは知っていた。しかし、浮気相手を排除して自分に繋ぎとめられる方法が、これしかないと考えたのである。実行するためには悪魔にならなければならないと思ったのである。ゆり子は子供が好きな方ではない。電車の中や、公園で悪戯をする子供や、やたらと歓声をあげている小学生等に対して、うるさく感じてたまらない方である。それでも孝詞の子供なら育ててもいいかなと考えている。孝詞と結婚するための道具にしようとしているが、一般的に言われている『子は夫婦のかすがい』ということわざに、ゆり子は単純に活路を見出していたのである。しかし、男を繋ぎとめる手段として妊娠するというのは、『諸刃の剣』でもある。ゆり子の願った方向の反対は、孝詞が決定的に離れるきっかけになる場合もあるという事。また、『中絶して欲しい』という事にもなりかねない。妊娠とは、この地球上に新たな命が誕生する事である。ゆり子はそこまで深くは考えていなかった。ただ孝詞が妊娠をきっかけに、結婚を考えてくれるという都合の良い未来予想図を描いているだけである。しかし、孝詞の本心としてはゆり子の妊娠を望んでいない。もしゆり子とデキ婚となってしまったら、孝詞にとっては不本意なのである。何故なら恭子と一緒になる事が、孝詞の本望であるからだ。ゆり子が本当に孝詞を繋ぎ止めておきたいのなら、得体のしれない浮気相手より魅力的であるために、一生懸命努力すべきなのである。だが、ゆり子は手段を選んだのである。

『孝詞さんも甘いわ。本当に妊娠させたくなかったら、私にピルを飲ませたりすればいいのに。女はどんな時に性交すれば妊娠するか判っているんだよ。孝詞さんは馬鹿とは思わないけど、本当に騙されやすいんだから。安全日なんて言えば信じるんだよね。まあ、デキ婚でも結果孝詞さんと私が幸せなら良いじゃないの。孝詞さんと私の子だったら、可愛い赤ん坊が産まれるはず。これで浮気相手も手を引くでしょうし、ハッピーになるわ』

 

ゆり子はそんなことを考えながら、また孝詞の股間をまさぐり始めた。そして、履いたばかりの赤いトランクスを脱がすと、タラコの様な唇で孝詞のペニスを吸い始めた。萎んだばかりのペニスは、また天狗の鼻のようにいきり立った。ゆり子はその姿勢のまま、吸引する力を高めていった。チュパチュパという吸って離す猥雑な音が響く。すっかり酔っている孝詞は、下半身への強烈な攻撃に、頭が朦朧とするような気がした。やがて、下半身が痺れるような快感に変わり、堪えていた精液があっという間にまた出てしまった。ゆり子はその精液を外に出すことなく、全て飲み干した。生臭い精液さえ今のゆり子には愛おしいものだった。まるで飲み干すことによって、着床が確実になるような気持ちでいた。孝詞を見つめながら、ペニスに付着していた精液を全て舐めて綺麗にすると、嬉しそうにエロテックに微笑んだ。孝詞はゆり子に襲われたような気分だが、酔って麻痺した頭の中では、いつもと違う満足感が支配した。やがて二人は疲れ切って、ピンクの花柄の布団の上で抱き合って眠りについた。


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ゆり子の罠にはまった孝詞

12月に入った寒いある日、ゆり子は産婦人科で検査をした。その結果、妊娠が明らかになった。その日、ゆり子は孝詞のマンションに行くと、満面の笑みを浮かべながら妊娠の報告をした。孝詞はその報告を聞くと、一瞬顔がゆがんだ。青天の霹靂を超えるような事件である。孝詞はいずれ恭子と結婚したいという願望から、ゆり子と関係を持つ場合、コンドームを絶対と言えるほど完全に使用していたのに、『いったい何故?』と激しく動揺した。

『待てよ、そう言えば、何回かゆり子の用意したコンドームを使ったことがある。あの時なのでは?』

と孝詞は目の前で微笑んでいるゆり子を軽く睨んだ。

「君の用意したコンドーム、大丈夫だったのかな?」

「えっ?何、大丈夫に決まっているじゃない。疑っているの?私は何もしてないわ。多分コンドームを付けていても、98%しか防げないっていうことを聞いたことがあるわ。工業製品だから中には使っているうちに穴が開いたり、破れているものもあるみたいなの。それに、貴方の精子が間違ってどこかに付いて、私の中に入ることだってあるわ。でも、良いじゃないの。孝詞さんは私のことを好きなんでしょう?愛しているんでしょう?私もそう。だから愛する人の子供が出来たなんて、本当に天にも昇る嬉しさだわ。孝詞さん愛しているわ。貴方も嬉しいでしょう?」

「う、うん」

「あら、喜んでくれないの?」

「とんでもない。あまりにも唐突だから、ただ吃驚しているだけだ」

孝詞は取り繕ったが、万事休すの思いが脳内を駆け回った。確かにゆり子は以前から結婚願望が強く、孝詞の浮気にもずっと疑いを持っていたのだから、その状況から抜け出るために工作したに違いないと思った。本当に孝詞は急転直下、地獄の境涯に落ちていくような気がした。ゆり子の事を嫌いではないが、今の孝詞には一生涯を掛ける運命の女とは思い難かった。セックスを重ねるごとに、新鮮なはずのゆり子への愛情は、セピア色に変色していくような気がした。ならば、さっさと別れれば良いはずだが、スムーズな縁切の前に、人生にとっての大事件は起きてしまったのだ。

ゆり子は孝詞が降ろせとは言えないタイプであることを本当は見抜いていたのか、出来婚で出産する方向にまんまと連れ込んだ。

孝詞にとって、現在運命の人である恭子に何て言えばいいのか、目の前が真っ暗になった。一方、百歩譲ってゆり子の事は好きだが、今回の妊娠については重大な疑義しか感じなかった。これは完全にゆり子の罠であると孝詞は断じた。断じてここから抜け出る道は、生命の尊厳から考えると、結婚しかないのかと孝詞は思いあぐねた。

「何でだろうね?このお腹の子はきっと奇跡の子だね・・・・・・」

 ゆり子はわざと演技をしているのか判らないほど、上機嫌で燥いでる。孝詞は心の中で繰り返した。

『絶対にゆり子の罠、罠に違いない。罠だ、どうしよう・・・・・・。恭子助けてくれ・・・・・・』

 

 この世に男と女しかいない以上、子孫繁栄という本能的な行為が大前提だが、自分自身の肉体の快楽のために、男ども女どもは睦み合う。そのセックスにおいて100%の避妊方法はない。薄いコンドームが、装着時に爪などで破れないという保証はない。だから、妊娠することが嫌なら、最初から無責任に欲望のまま行為をしない事が鉄則だ。

もし、女性が妊娠してしまったなら、男は責任を取りたくないために、あれこれ理由を考えて、自分を卑怯な悪者にしないための方策ばかりを考える。男は自分がした事に責任を取るべきである。妊娠は、男の精子なくしては成り立たない結果である。つまり女性が計略的であっても、男が行為をしない限り起こりえない話であるから、男には大きな責任があるのだ。

結婚か、それとも未婚で産ませるなら認知をするか、もちろん男は最悪の場合、堕胎費用や慰謝料を払う事も覚悟しなくてはならない。堕胎つまり人工妊娠中絶をした場合、子どもを産めなくなる体になる事もある。また、自分の子供じゃないかもしれないと逃げようとしても、今では生まれた後、DNA鑑定をすれば、90%以上の確率でその男の子供であることが証明される時代である。

いずれにしても、こう考えてくると、孝詞の場合も決定権はゆり子にも厳然とあり、孝詞が一人で決める事ではない。産んでもらうか、または産むなと孝詞は言えるだろうか。もし生むなと言う場合、『自分の子どもの命を、自分の手で断たせる』責任を、孝詞は一生背負っていく覚悟をしなければならないのである。

 孝詞はふうっとため息をつくとこう言った。

「念のために聞くけど、気にさわったらごめん。その子は間違いなく僕の子で良いんだよね。君が他の男と関係するなんてあり得ないけど一応・・・・・・」

 そんな言葉を発してから、孝詞はゆり子が怒るかも知れないと恐怖を感じたが、ゆり子は切れるどころか征服者のような余裕の顔でこくりと頷いた。

うん、決まっているじゃない。私には孝詞さんしかいないの。貴方に抱かれると深い愛情を感じるの。他の人に抱かれたいなって思ったことは一度もないです。いつどうして私の体の中にあなたの精子が入ってできたかは、正確なことは医者でもない限り判らないわ。でも、これだけは間違いないです。孝詞さんと私の間にできた子です。本当よ。私は浮気なんかしていませんし・・・・・・

ゆり子はさり気なく嫌味を含んだ言い方をしたが、ショックで頭の中が混乱状態の孝詞はまったく気づかない。

9月に孝詞は恭子に付けられたファンデーションで、自分に浮気の疑いをかけられた時、反省した振りをしていた。しかし、ゆり子より好きでたまらない恭子との性交の回数と激しさは、減るばかりか増している。そんなことをおぼろげながら見抜かれ、危機的状況になりそうだったが、今は子供が出来たことで、全てが消し飛んでしまうようだった。

「孝詞さん、私とこのお腹の中の子供の事、ずっと面倒を見てくださいね。この前の浮気の疑いのことなんかはすっかり水に流してしまっているし、貴方をずっと信じているから、これからも私たちの事だけを見ていてくださいね」

「うん・・・・・・」

孝詞の頭の中は、今後の対処の仕方で思考が急速に回転していたが、危機から脱出する方法など思い浮かぶはずなどなかった。恭子との愛の行方はどう紆余曲折していくのかと考えると、深刻な絶望が襲ってきた。

「孝詞さん愛しているわ・・・・・・

 ゆり子は孝詞の部屋着の股の部分をまさぐり始めた。孝詞はその行為をやめさせようと一旦手を動かそうとしたが断念した。今、そんな情欲の起きない自分がいたが、もし拒否したとしたら、浮気相手がいるのではないかと疑われるから止めたのである。ただやけになっている自分がいた。されるがまま孝詞はゆり子に触らせていた。しばらくすると、ゆり子は孝詞の部屋着とトランクスを剥いで、萎れたようなペニスを口で含み始めた。

 孝詞の気持ちはそれどころではなかった。振り払うに振り払えない。しかし、悲しいメランコリーな感情が支配している精神とは裏腹に、性欲という獣は別物のように動き出している。しばらくすると、いつものようにいきり立っている自分のペニスに、孝詞は憎しみのような感情さえ抱いた。

「妊娠の初期だけど、静かに入れてくれれば大丈夫よ・・・・・・」

 ゆり子は上目づかいで艶めかしい視線を孝詞に投げてきた。孝詞は苦笑いのような訳の判らない表情をした。しかし、いきり立ったペニスは何かを求めてさまよっていた。

「そのままここに入れて?」

 その言葉の響きは、孝詞の凍ったメランコリーな感情を吹き飛ばした。孝詞は自分が何をしているかも判らないほど憔悴しているのに、性欲だけが独り歩きしていることに驚いた。自分は唯の獣なのだろうかとさえ思った。

そして、そんな考えの中から、今ゆり子と激しくセックスをして、流産させたらどうだろうかというとんでもない発想が出てきた。孝詞は知人から聞いたことがある。妊娠初期のセックスで流産した例である。妊娠初期は何もしなくても流産する確率は15%程度あるが、無理していつものように激しくセックスをすれば、もっと確率は上がるというのである。であれば、このにんまりと喜んでいるもしかしたら策略家であるゆり子の子供を、流産させたらどうだろうかと孝詞は考えた。

しかし、やはりそれは人間として最低であり、犯罪であると孝詞は思った。じゃあどうすればいいのだろうか?まったく出口が見えない孝詞なのである。

 それでもペニスは相変わらず天狗の鼻のようにいきり立っている。いきり立ったペニスをゆり子は右手でゆっくりしごいた。孝詞はその手の動きに堪えることができなかった。自暴自棄のようになってゆり子のパンティーを脱がすと、黒く茂った可愛らしい陰毛が見えた。その中心部に指を入れると、しっとりと濡れているのが判った。孝詞はその部分にコンドームをつけないで、自分のペニスをあてゆっくりと挿入していった。

「うっー」

 とゆり子は小さく呻いた。

 孝詞のペニスは、いつもとまるで違う柔らかい肉の襞の感触に、徐々に痺れていくような気がした。コンドームを付けた時は全く感じなかったものである。その感触はゆり子が孝詞のものを口に含んだ時に似ているが、やはり格段の快感の違いがあった。口でも吸いつくような行為は、孝詞のペニスを快感の渦で巻くようであったが、ゆり子の膣の襞はまるで全部が吸盤のように吸い付いているような錯覚さえした。これが、今生の最高の悦楽であり、快楽であり、安楽であり、幸福であるとさえ、メランコリーだった孝詞は感じていた。

 まさに、この世に生まれてきた目的は、この快楽を味わうためだったとさえ思えた。仏教でいう渇愛という煩悩の中に、欲愛というものがある。肉体の快楽を求める欲望であるが、孝詞はこの欲望の充分な満足感に感動さえしているようだった。しかし、この欲愛という生命エネルギーを、善へ方向づける智慧をまだ持ち合わせてはいなかったようだ。

 そして恭子が安全日の時に、コンドームを付けないでセックスをした時の感触が思い出された。恭子の方がもっと気持ちが良かったが、今日はゆり子のお腹に子供ができたという不安のために、何故か異常なほど興奮しているようだ。

『この世にこれ以上の快楽と喜びがあるのだろうか・・・・・・

 孝詞の頭の中はその異常さと苦悩と将来の不安で、つまり現実の世界で恭子と一緒になれないという不安と重なって、官能的な快楽を膨張させ、もうどうでも良くなっていくような気さえした。今この瞬間がいじらしく、尊い時間であればそれで良いとさえ思った。快楽は麻薬なのである。ゆり子の中の襞の感触に酔いしれながら、ゆっくりピストン運動をしていると、ペニスはまるで赤く熱くなるような気さえした。芯が燃えているかのようだ。熱いペニスはだんだんと温度を上げていくと、ゆり子の喘ぎも最高潮に達していく。獣同士の声が絡まり、合いの手を打つようにリズムを刻みながら一緒に果てて逝った。

 孝詞の脳髄は、今まで感じたことがないような極楽の感触に満たされた。やがて感動した面持ちで、ゆっくりとゆり子の下半身から自分のペニスを抜いた。一瞬でもお腹の中の子供を殺そうと思ったことなどすっかり忘れて、孝詞はやさしくゆり子を気遣った。

 確かにどうとでもなれと言う諦観が孝詞の心を侵食し始めていたのだが、それは逆に恭子への欲愛を高めて行くような気もしていた。 


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まだゆり子に負けたわけではない

ゆり子から妊娠の話を聞いて激震が走った孝詞は、ゆり子が帰るとしばらくぼーっとソファに座ったまま考えあぐんでいた。ゆり子の与えてくれた快楽で麻痺していた孝詞は、ようやく我に返ったのである。恭子に直ぐに電話をしたかったが、まとまりの無い余計なことを喋りそうで、孝詞はもう少し時間をおいて彼女に話そうと思った。ゆり子が策略で妊娠したのは間違いないと確信しているが、それが判ったところで何も手を打つことができない自分の無力さに、反吐が出そうなほど憔悴していた。恭子に電話したら、声が上ずって見っとも無いほど臆病な醜態を晒してしまいそうな気がした。いっその事何も伝えないで音信不通にでもなりたい心境だった。それでも、孝詞はゆり子より恭子を深く愛していた。だから、妊娠して結婚を迫られているこの重大な人生の事件を、恭子に話さないという理不尽なことなどできるはずがなかった。恭子に一切今日の事は告げず、数週間も音信不通にして、本当にゆり子との結婚が決まってから連絡したとしたら、恭子はどんなに悲しむだろう。

もし言い訳できるとしたら、孝詞が恭子に迷惑をかけたくないから、孝詞だけが責任を取る形で、何も告げないで終わらせたという言い方もあるだろう。恭子の事を物凄く愛しているけど、愛しているからこそ、恭子を愛人というポジションに置くことはできないし、孝詞と付き合い続けても、いつまでもゆり子の影がちらつくようでは、不安にさせるだろうと、別れる事を選んだのだとも言える。しかし、その似非責任感の孝詞に対して、恭子は十分な支えになれなかったことで、きっと自分を責めるだろうし、ゆり子の孝詞をはめて騙して利用するような考えに、本当に苛立って爆発することの方が怖かった。だから明日には直ぐに話してしまおうと結論が出た頃、腕時計の針はもう3時になっていた。孝詞はやっとそれから目が回るような夢を見ながら眠りに落ちた。

 

次の日、ゆり子は外部研修で席に居なかった。孝詞は経費伝票を彼女の机の左上にある書類ボックスに入れ、キーボードの上に掛けてある赤い色の目立つタオルを見て、深いため息をついた。恭子もいなかったので、3階の執務室に戻るために階段を登り始めた。すると、均整のとれたなじみのある美しい恭子のむこうずねが見えてきた。上を見上げると、にこにことした恭子の屈託のない笑顔があった。目下の孝詞の胸を締め付けている大事件をまだ知らない笑顔は、孝詞の心を切り刻んだ。それでも気を取り直して、周囲に誰もいないことを確認して、恭子に声を掛けた。想像通り声が震えていた。

「昼休み、3階の倉庫に来て・・・・・・

 社内では本当に危ない行為だが、ゆり子の不在の時に話しておきたかったこともあり、孝詞は焦ったような表情で話しかけている。恭子は孝詞の表情が暗く沈んでいるとは思いつつも、いつもの逢引のようなニュアンスに、一瞬嬉しそうな顔をした。

 

恭子は3階の女性用のお弁当を食べる部屋から早めに出てくると、エレベーターホールの脇の倉庫の部屋に入るために、銀色の太い取手を引いた。倉庫の中は既に明かりが点いていて、孝詞が右の奥の机や椅子の置かれた場所に立っているのを確認すると、ドアの内鍵をかけ、にこにこしながら恭子は近づいた。孝詞は近づいてきた恭子の両方の上腕二頭筋の部分を掴むとこう言った。

「恭子さん、ゆり子にやられたよ・・・・・・

 されるがままの状態で、恭子は孝詞の目をじっと見つめ返した。その美しい恭子の女神のような可憐な顔立ちに、孝詞は涙が出そうであった。悲しみに満ちた感情の波が押し寄せてきた。欲しいものを得ることができない切なさが、孝詞の心を引っ掻き回している。孝詞は若鮎のような清々しい恭子の体を抱きしめた。体全体から発するフェロモンのようなものが孝詞の鼻孔を擽ると、さらにまた倍加したように強く抱きしめた。

「ねぇ、どうしたの?何があったの?」

「ゆり子が妊娠した・・・・・・

 その言葉は、物凄いスピードで恭子の思考回路を進撃した。孝詞の手を優しく振りほどくと、並べてあった赤い椅子に並んで座り、震えている孝詞の手を軽く握った。

「それは、事実なの?」

「診断書みたいなものはなかったけど、あの嬉しそうな顔は演技ではないと思う。僕は嵌められたんだきっと・・・・・・

「そうね。ゆり子にとって孝詞さんの子供ができるという事は、間違いなく浮気相手への、つまり私への当てつけだと思うわ」

「そうなんだ。どうしよう。恭子。君と一緒になるために、もっと早くゆり子と別れ話をしておけば良かったんだ。二股かけるなんて僕は何て馬鹿なんだ。すまない恭子」

 孝詞は頭を抱えて膝に顔を付けている。恭子は優しくその孝詞の髪を撫でている。可哀想な孝詞、私の運命の人の嘆きは私の嘆きと恭子は念仏のように心の中で唱えている。

「いいのよ。私だって重徳君という彼がいるから、なかなかテレビドラマみたいに上手くいかないわ。でも、人間は不思議よね。目の前に現れた人間が一番縁の深い人かと信じたら、あとではずれだったなんてことが良くあるわ。何て運命はいたずら好きなのでしょう。やっと孝詞さんという本当の愛する人に出逢えたのに。悔しい。ゆり子が憎いわ」

 恭子の心の中では、本当は油断していた孝詞が一番悪いと思ったが、直ちに打ち消してその憎悪をゆり子に向けている自分が、何故か愛おしく感じた。

「許してくれ。一番悪いのは僕だ。僕の油断なんだ。僕はただの性欲におぼれた獣かもしれない。恭子の事が一番好きなのに。本当にごめん」

「良いのよ。私だってずるずると重徳君と付き合っているわ。あなたが一番好きなのに、保険をかけているみたいに、重徳君ともいやらしいことをしている。貴方にとって私は不潔な女なのかもしれないわ・・・・・・

「恭子が不潔な女なんてことはあるはずがない。君はどんな状況に置かれても天使だよ。世界一の女だ。ゆり子と比べたら月とすっぽんだよ」

 孝詞は顔をあげると、恭子の形の整った唇にキスをした。キスをすると、追い込まれた苦境で痛めつけられている気持ちが、すっと軽くなるような気がした。そして、苦境そのものが恭子への思いをますます高めて行くようだった。

 何分たったのだろうか。二人は抱き合ったままだった。恭子はどうしたのだろう。妊娠報告を聞いて狂ってしまったのだろうか。座っている孝詞のズボンのジッパーを下げると、白い右手を入れて、萎えている孝詞のペニスを外に出すと、唇を付けた。孝詞はその動作に、不思議な猥雑さと限りない欲望が走り出していく自分の感情に気づいた。恭子は激しくペニスを吸い出した。孝詞は吸盤のように吸い付く唇を持った天使に、とてつもなく愛情が湧きあがるのが判った。そのグロテスクであり得ない行動、しかも会社の中でのことである。それでも恭子はあまりにも美しかった。何故なら、苦境という不安の中であるがゆえに、湧き上る孝詞への愛情に偽りがなかったからである。ただ相手を喜ばせたい。相手の欲愛を充足させたい。この気持ちはゆり子に負けないものであると言っているようである。

 孝詞は言いしれない快楽の突然の襲撃に、我を忘れて恭子のタイトスカートを捲り上げようとした。

「駄目、今日は駄目なの。生理が始まったの・・・・・・。だから、貴方だけが逝って・・・・・・

 孝詞は仕方なくスカートの裾を戻すと、天井を見上げて迫りくる快感の頂点に向かい始めた。恭子の唇は痛いほどに吸い付く。時々歯が当たる。ペニスの横を舐めたり吸ったりと、その行為のバリエーションは孝詞を性の獣にする。恭子の口が孝詞のペニスをすっぽりと覆い、深く浅くとピストン運動のように動かすと、孝詞はもう抑えることができなかった。勢いよく発射したが、恭子はそれを口の中で受け止めているようだ。喉をゴクリとさせ、孝詞の精子を全て飲み干してしまった。ゆり子のあの時と同じ光景であった。孝詞はあっけにとられた子供のように、恭子の顔をまじまじと見てしまった。

 恭子はゆっくり笑いながら、こう言った。

「ゆり子の妊娠は本当にショックです。でもね、私と貴方がこの世からいなくなるわけではないのだから、まだ負けたわけではないと思うの。このショックの傷に瘡蓋ができて癒えるまで時間がかかるでしょうけど、まだ殺されたわけではないのだから。孝詞さんはゆり子に子供ができても、私の事が嫌いになったわけではないよね?」

「当たり前だよ。君以外に僕の事を本当に理解してくれる人はいないし、僕の心と体を癒してくれる人はいない。その感情に嘘がないことを誓う」

「その言葉を信じているわ。その言葉があればこれからも生きて行けるし、二人が本当に一緒になれる日まで戦えるわ」

「そうだよ。恭子。いつもいつも愛しているよ」

 二人は抱き合って、相手の心臓の鼓動の音を聞きながら、相手が嘘をついていないことを確認しあっているようだ。

 抱き合っていると、1時を告げるチャイムの音が倉庫の中にも聞こえてきた。

二人は同盟を結んだ同志のように、今後の改善策を逐次話し合って行こうと約し、恭子は先に倉庫を出た。幸い誰もエレベーターホールにいなかった。5分後に孝詞も少し曇りの晴れた顔で出て来た。

 

次の日、弾けるほど嬉しそうな顔をして、ゆり子は恭子に報告してきた。やはり、星野部長や他の社員が全くいない時である。

「恭子さん、嬉しいことがあったんだ」

 恭子はその事について、もう話してくるんだと構え、ゆり子の勝利者のような顔にうんざりしながらも、毛筋ほどの感情もあらわさず聞いていた。

「これは周りにはしばらく内緒にしてくださいな。会社では恭子さんに話すのが初めてなの。実はね・・・・・・。孝詞さんの子供が出来たみたいなの。それを彼に話したら喜んでくれて・・・・・・。だから来年には結婚する予定だから祝ってくださいね・・・・・・

 孝詞からその事について、昨日の昼休みに告げられていたので、恭子は動揺する感情をどうにか抑えることができていた。顔の表情が乱れることなく、自然に微笑を湛えて、

「へぇ~本当なの?おめでとう。ゆり子に先を越されたわ」

と天地がひっくり返ってもゆり子には言いたくなかった言葉を発していた。もし、昨日倉庫で孝詞からこの話がなかったとしたら、驚きのあまり顔が真っ青になって、管理の部屋を飛び出していたかもしれない。常日頃明晰で冷静な恭子であるが、それくらいの衝撃を受けた事件なのである。

近い将来、なんとか上手く孝詞がゆり子と別れてくれて、自分も重徳と縁を切って、一緒になろうとしていた未来予想図が、砕け散るような衝撃であった。孝詞から話があって、一日中そのことを考え、朝、目が覚めても巨大な困難に見える怪物は存在していたが、心の中でやっとその現実を受け入れることができそうになった頃、ゆり子が言ってきたので、かろうじて不自然さもなく演技することができた。

「そんなことはないわ。恭子さんだって素敵な彼がいるし・・・・・・。それでね、妊娠したおかげで、孝詞さんの態度も変わりそうだし、浮気もおさまると思うから、多分一石二鳥だと思うの。私って意外と強運なのかもね・・・・・・。あ、ごめん自慢ばかりして・・・・・・。私って単純だから・・・・・・ 

 と言ってゆり子は笑った。恭子は笑いながらも、ゆり子の事を許せないと思った。机の下でゆり子の方に向かって、足蹴りをしていたのである。


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やっぱり、ゆり子と一緒になるの?

師走の寒い日、孝詞と恭子は浦安のひっそりとした隠れ家のようなバーで逢った。遅れてきた恭子は、黒いコートを入り口の側の壁に掛けると、すでに座っていた孝詞に微笑みかけ、赤い革張りの丸いバーチェアーに腰かけた。

「お疲れさん。今日は判りにくいところに呼び出してごめん。迷わなかった?」

「大丈夫よ。私は方向音痴じゃないから・・・・・・

恭子は笑いながらも、このバーに来ることができて、ほっとしているようだ。恭子はバーテンにホワイト・レディというカクテルを注文し、テーブルの上に置かれると、孝詞とグラスを合わせてお疲れさまと呟いた。孝詞はウィスキーのロックだ。孝詞の顔の表情は、どこか本当に疲れ切っていた。しばらく仕事の話をしていたが、ウィスキーのお代わりをすると、話題を変えた。恭子は小さなチョコレートを頬張っている。

「あれからいろいろと考えたんだ。ゆり子の狡いやり方を責めても何にも解決しないし、それでは前に進むこともできない。だから、まず僕の子供がゆり子の腹の中に宿ったという事実を、まず受け入れることにした。そしたら、少し気が楽になった」

「そう?私はまだ不完全燃焼のように燻っています。いつもなら竹を割ったように割り切れるのに、今回は駄目。孝詞さんをそれほど好きだっていう事が判ったような気がする」

「そうか・・・・・・。そんな言葉を聞くと、僕はとても嬉しいね

「でも好きなのに前に簡単に進めないこの状況ってありえない。私の運命を呪う」

「いや、呪うなんて言わないでくれ。妊娠の件は結局僕のしでかしたことが、とてつもなく酷いと言われているようで・・・・・・

「ごめんなさい。今のは他愛のない愚痴と思ってください・・・・・・

 恭子は孝詞の肩に軽く触れて、また手をカウンターの上に戻した。その仕草は中途半端なほどぎこちない。

「恭子さん。仮の話だけど聞いてくれる?」

 孝詞の声は怖気づいた子供のような響きを持って、とぎれとぎれに恭子の耳に伝わった。

「怖い、孝詞さん怖いわ・・・・・・

「ごめん、やっぱりゆり子のお腹にいる子供の事を考えると、僕には中絶してなどととても言えない。僕がみんな悪いんだよ。僕さえしっかりしていれば、策略に乗ることなどなかったのにと、悔しくて仕方がない」

「あら、さっきは妊娠の事実を受け入れると言ったのに・・・・・・。やっぱり私と同じく悔しいの?やっぱり似た者同士なのかしら・・・・・・。余計に辛いわ

「だからそんな中途半端では続かないから、自然の流れに従うしかないと今は思っている・・・・・・」

「それじゃ、正式に親になるつもりなの?」

「うん。それしか前に進む方法はないと思う。もう一つあるとしたら、君と心中することだ。そんなことを君が承諾するはずはないだろう?」

「そうね。どんなにひどい境涯に落ちても、死ぬくらいなら乞食になっても生きていく。私はそういうタイプよ」

「知っているよ。僕の天使は本当に明晰で強いことをね。でもその強さが反面脆さに繋がる事だって知っている」

「そうかもしれない。孝詞さんを愛する気持ちが強いほど、衝撃に弱いようなところもあるものね・・・・・・

 恭子は2杯目のホワイト・レディを飲み始めていた。強い酒が恭子の喉をひりつかせる。

「実はこの世に僕が生まれていなかったかもしれないんだ」

「どうして?」

「昔僕の母が付き合っていた男性がいた。そいつは身勝手な男で、つまり僕の父だが、妊娠したという事で母を捨ててしまったのさ。だから、母は僕を中絶するしかなかった。その事で悩んでいる時に、今の僕の育ての親になる父が現れて、母を思いとどまらせて僕は生まれたんだ。でなければ、僕は本当にこの世にいなかったし、楽しい仕事だってできなかったし、恭子さんとも出逢えなかったし、こんなにも愛することができなかっただろうと思う。だから、前向きな人が良く言う言葉に、生まれてきて生きていることだけで丸儲けだと僕も思っている。苦労も多いけど、こんな素晴らしい人生を与えてくれたのは母と養父のお蔭なんだ。だから、せっかくこの世に生を受けようとしているお腹の子を殺すなんて絶対できない。これが僕のこだわりなんだ。だから・・・・・・」

 恭子は孝詞の言葉に、目の縁が涙でにじんでいた。それは孝詞への愛おしさと、受け入れなければならない現実が、目の前で明らかになることへの悲しさであった。

「やっぱり、ゆり子と一緒になるの?」

「本当に申し訳ない。今はゆり子と結婚するしか道がないと思っているんだ。妊娠した以上、僕がお腹の子を育てる。それは人間として当然のことだと思う。男の責任と言えるだろう。だから、結婚するよ、恭子さん。それでも君が一番好きなんだ。これはどうしようもない事実なんだ」

「孝詞さんが私の事を愛していることを信じているわ。嘘だとは思わない。でも、物凄く悲しい。孝詞さんと晴れて一緒になることができないなんて。私はどんな運命なのかしら。なんでそんな苦しみを味わい、孝詞さんを愛することで常に不安を抱き続けなければいけないの?私は不幸の子、悲劇のヒロイン?いじめられっ子?いったい何なんでしょうね?」

「恭子さんは、間違いなく僕に一番愛されている女性だよ」

 恭子はその事を良く知っていた。時々、孝詞への猜疑心が生まれることもあるが、信じ続けることを止めなかった。

 孝詞のウィスキーグラスの氷が溶けて、カランとグラスとぶつかりあう涼しい音が聞こえた。バックグラウンドミュージックはかすかにしか聞こえない。店内には他に2組のカップルがいたが、囁くような声がするだけで、静かな湖畔にいるような佇まいだ。バーテンは物静かな黒縁メガネをかけた白髪の男性で、どのカップルの会話にも興味を示すことなく、食器やグラスを丁寧に拭いている。いや、拭いているというより磨いているような動作だ。

 数分間、沈黙の壁が二人の間に立ちはだかっていたが、その間、恭子の胸の中では、越えられない現実に対する歯がゆさで、悲痛の苦しみを味わっていた。胸の奥で地団太を踏んでいたのである。孝詞は何を言っても恭子の悲しみを払しょくできない無力に、やはり同じように地団太を踏んでいたのである。

 

しかし、やがて恭子は押し出すように呟いた。

 

「悔しいけど、そうするしかないのね・・・・・・。体や感情は全く理解していないけれど、理屈は判りました。そうやって孝詞さんと私は、進むしかないのか・・・・・・。でもね、私は孝詞さんとの関係をすっぱり絶つなどできないわ。それは死ぬより辛いことです。だから、ずっとずっと私と逢う時間を作ってください。心からお願いします。来年結婚してあなたの子供が出来たとしても、私を愛し続けてください」

「当たり前だよ、ずっとずっとだよ。確かに、ゆり子と結婚して生活がどう変わっていくか、未来なんかまったく予測がつかない。不安だらけだよ。でもね、これだけは言える。僕の中にある恭子さんへの愛情は、全く微動だにしていない。逢えば逢うほどに、ダイヤモンドのように固くなって行くよ。君と逢っていることは、僕の最大の幸せなんだ。これを取り上げられたら、生きてゆけないくらいだよ。これが僕の嘘偽りの無い本心だから・・・・・・。何度でもこのことは言っておきたい。愛おしくて、離れたくない人なんだ」

「じゃあ、ずっと逢えますね?結婚してあなたが新居を持っても、ゆり子と楽しい日々を送っても、子供をあやして育てていても、逢えるよね?」

「そうだよ」

「孝詞さんがゆり子と生活することが表の顔で、私との日々は裏の顔かしら。裏と言う言葉は嫌だから、私たちの方が表の顔にしようと思うの?良い?」

「ああ、それで良い。そんな生活のなかから必ず活路が見いだせるはずだから、まず進んでみよう。そうしよう」

「判ったわ。孝詞さんのその言葉が嘘でないことを信じて、私にあなたを止める権利はないけれど、ゆり子との結婚を認めるつもりです」

「ごめんね。どうしても子供を中絶させることに踏み切れない。申し訳ない恭子さん」

 孝詞はカウンターの上に置かれた雪肌のように白い恭子の手を軽く触った。恭子の手はまるで雪女のように冷たい手をしていた。

 孝詞と恭子の運命は、もう止めようもない方向に動き出していた。それは自分が抗ったのにもかかわらず、外されて追いやられた結果の道のようにも見えるが、実は全てが全能の神のなせる技であった。二人の行き着くゴールの一つはもう決まっているのだろうが、今は全く予測すらできない。それでも生きている以上、大げさな言い方だが、這いつくばってでも生きていかなければならないと恭子は思った。

恭子の内部では、孝詞をゆり子に取られるという現実が明確になるほどに、孝詞の存在は自分にとってかけがえのないものであることが良く判った。心底愛していることが理解できた。来年には、恭子が止めることのできない運命の流れの中で、孝詞とゆり子が結婚していくのを、耐えなければならない。耐えるほどに孝詞を多分ますます好きになるだろう。そして、とりあえず不倫と言う形かも知れないが、愛を育み、隠れ蓑として重徳と結婚するかもしれないという事を予感していた。ただし、重徳と結婚したからと言って、孝詞への愛が消え失せるなど、あるはずがないと思い込んでいた。しかし、ひょっとしたらその愛がクールダウンして、平凡な女になれるかもしれないという考えも、心の片隅にあったのも事実である。だから、孝詞がゆり子と結婚するならば、重徳と結婚して、水面下で孝詞との逢瀬を重ねることも、選択肢の一つだと考えた。

そんなことを考えていると、一番窓際に座っていたカップルが声を上げた。小さな格子の入った窓から、白いものが見えたと歓声を上げているのである。恭子は目を凝らしてこう呟いた。

 

「初雪かしら・・・・・・


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孝詞と常に近くにいるために重徳と結婚?

1994年という新しい年がやって来た。恭子にとってはあまり嬉しくない年だが、今日は重徳のマンションに遊びに来ていた。重徳がしつっこく誘うので、仕方なしに来たような感があるがそうでもない。本当に好きでもないのに来たのは、重徳がセックスフレンドとしては都合の良い存在だったからである。孝詞がゆり子と結婚することになった今はなんとなく逢えない。その寂しさは半端なかった。時折、孝詞との激情的な貪りを思い出しては、下半身が熱くなる。そんな時、恭子は近くに住んでいる重徳の元へ突然行ったりする。会社が引けて、孝詞が帰ってしまうと、寂しさがこみ上げて来て、重徳の家に予告も無く行く事が多いのだ。

 

大洋マンションの306号室の玄関のチャイムを鳴らすと、予期していたかのように満面の笑みの重徳が出てくる。重徳は恭子の気持ちに反して、ぞっこん惚れ込んでいるのだ。重徳は寒いのにいったん外に出ると、コート姿の恭子にこう言った。

「今日は恭子さんが来そうな気がしていたけど、そんな日に限ってうちの母もやってくるから困ったものだよ」

 そう言いながら、本当は嫌がっている訳ではない事が恭子には判っている。

「大丈夫、重徳さん、いつもさっさと帰るでしょう。だから、いらっしゃっていてもそんなに困らないわ」

「すまん。直ぐに帰ってもらうから、挨拶だけしてくれるね?」

「お安いご用です」

 部屋の中に入って行くと、リビングルームの座卓の前にちょこんと座っていて、ブラックコーヒーを飲んでいた小太りの光代が、立ち上がって迎えてくれた。テレビはつけっぱなしだ。

「あら、いらっしゃるのだったら、何か美味しいものを買ってきて置けば良かった。ごめんなさい恭子さん」

「とんでもないです。今日はちょっと立ち寄っただけです。私こそ突然お邪魔してすみません」

 恭子は光代に一種の抵抗を感じているが、どの家庭の母親と息子の関係も、同じようなものと思い、賢く対応していた。心の中では、重徳を溺愛している光代に、相当距離感を感じていたのであるが・・・・・・

「しげちゃん、それじゃ私の作ったクッキー、恭子さんにも召し上がっていただいたら・・・・・・」

「うん、いいよ。お母さんのクッキーは、本当に世界一と言っていいくらい美味しいものね。恭子さんも喜ぶと思う」

「しげちゃん、お世辞がうまいのね」

 光代は恭子が目の前にいるのにも関わらず、重徳の頭を撫で、自分の頭を軽く彼の肩に寄せた。まるで小学生ぐらいの息子に対する仕草だ。意味ありげに見えるその仕草は、重徳が大好きという事を、体を使って表現しているようなところがある。あなたを頼りにしているから、重徳も母を大事にして欲しいと言っているようだ。恭子は後ずさりしたいくらいだった。

 それでも、恭子は微笑ましい親子を見るように、にこやかに笑って演技をした。そして光代の言われるままに床に座った。

「お母様と重徳さんは、仲が良いのですね?」

「そうですね、しげちゃんは一人っ子だから、大事に育ててきましたね。この子には、反抗期と言うものがなかったのよ。ねえしげちゃん?」

「うーん。少しはあったんだけど、お母さんが気付いていないだけだよ。結構天然だし・・・・・・」

 二人は顔を見合わせて笑っている。

「本当にうちの母さんは、気持ち悪いくらい僕の事が好きみたいだ。恭子さん信じられる?」

「えっ、どんなこと?」

「恭子さんに話したら引くかもしれないけど、中学3年までお母さん、一緒にお風呂に入っていたよ。どう思う?」

 恭子は嘘でしょうと言いそうになったが、一旦その言葉を飲み込んだ。

「本当に仲が良いんですね。魔の中学2年と良く言われてますから、そんな時期でも一緒というのは、良いことなんでしょうね」

「他にもエピソードがいっぱいあるよ、恭子ちゃん」

 ちゃん呼ばわりに恭子は背筋がぞくっとするような気がしたが、顔色を変えないで頷いている。もともと重徳には変わった執着心があるようで、それが結局開発業務で成果を上げることに役立っているようだから、仕方がないと恭子は思った。

「あとね、やっぱり中学生の時まで、お母さん時々添い寝してたね。油断するとチューしたりしてくるから危なかったよ、ハッハッハッ」

「それは、愛情の印よ。しげちゃんは今でも可愛くてイケメンだけど、中学の時も可愛かったからね・・・・・・

・・・・・・

 恭子は一瞬黙ってしまった。すると、光代が突然カーディガンの上のボタンを外すと、鎖のついたアンティークシルバーカラ―のロケットペンダントを取り出した。楕円の花柄である。そのペンダントを開けると、学生服を着た少年の顔写真が見えた。紛れもない重徳の顔写真である。

「だんだんと息子が大きくなって、私から少しずつ離れていくようで淋しいのですけど、中学の頃のしげちゃんは、今もそうだけど一番輝いていたわ」

「へぇー、まじまじと見たことがないので見せて?」

 重徳は恭子と一緒に小さなペンダントを覗いている。重徳の髪と恭子の髪が絡みそうになる。対面していた光代の顔が、一瞬嫉妬心で曇ったように恭子には見えたが、重徳はまったく気づいていないようだ。

「中学生の頃の僕って、確かにイケメンだったね。恭子さんどうですか?」

 光代がいる手前、冗談でも悪く言えないから、恭子は歯が浮きそうなのを堪えてこう言った。

「いい顔していたのね。凄いキラキラしている」

「そうよ、しげちゃんは私の自慢の子だったの。もちろん今も・・・・・・」

 光代はまた重徳にボディタッチしている。

「あそうそう、この間買ったこの映画のビデオ、しげちゃんきっと面白がるかと思って持って来たわ」

「どれどれ、あ、これ最新作じゃん。サンキューお母さん。見たかったんだ。あっ、この間借りたビデオ返すよ。このビデオちょっと泣けたね」

「そうでしょ。私もこの恋愛映画とっても好きで、3回ぐらい見ているわ」

二人は恭子がお客様で来ているのに、わざとかどうか判らないが、仲睦まじい親子のやりとりを隠すどころか、最大にオープンにしているようだ。光代が天然なせいだろうか。その二人の楽しそうなやりとりを見ていると、恭子は複雑な思いがした。

重徳のことをしげちゃんと呼んでいることや、共通の趣味であるらしい映画の事で話が弾んでいる姿を見ると、親子の関係が微笑ましいと思う反面、孝詞と比べたらそんなに好きでもない重徳に、嫉妬してしまう恭子がそこに居た。

息子を溺愛する母親は、大抵自分の息子に対する疑似恋愛中と言われる。本当は自分の夫にこうされたい、こうしたい、夫にこうなって欲しい、こうして欲しいっていう欲求不満を、異性の子供に向けることで解消しているのである。特に夫が海外赴任のため、光代には不満が累積し、寂しい思いをしている。その代りに息子の重徳が親孝行だと思って、色々と面倒を見てもらった事に対して返す行為が、ますます疑似恋愛に拍車をかけたのだろう。だから、この母親の本当の感情としては、夫の存在がかなり薄くて、夫に言っても無駄だと思いこんでいるのであろう。もし、母親とその夫の夫婦仲がもっと良かったら、息子の重徳との関係は、これほど密着的ではなかったのであろう。

ずばり、この母親にとって、重徳というのは子供でもあるけど、同時に恋人のようなものであり、その重徳ともし恭子が結婚した場合、母親からその恋人を奪うようなものであり、重徳が結婚して一つの家庭を持ったとしても、本当は母親のいる家、つまり実家に帰りたがっているはず、と思い込むことは想像に難くない。

なぜこうまで執着するのであろうか。ある科学者の仮説では、遺伝子の世界から見ると、息子の持っている遺伝子の殆んどは母親からのものとのこと。反対に娘の場合は、♂と♀からは半々ずつらしい。だから周囲が呆れるほど溺愛するのはこのためという。巷では異常な溺愛ぶりが多いが、そういうものだと諦めるしかないという説がある。しかし、それは全くの迷信と言う人もいる。ただし、一つ言えるのは、娘は父親に似て、息子は母親に似るというのが、幸せになる確率が高いらしいという説は、納得できるようなところがある。

 

恭子は割と口が達者な方であったから、光代と会話である程度盛り上げることができたが、やはり重徳が間に入ってくれるからこそなんとかこの場をしのげた。

しかし、頭脳明晰な恭子も思わず地雷を踏みそうになった。光代と話している時に、会社での話題を確認するために、「しげのり」と呼び捨てにしてしまったのである。するとどうだろう、

「いつもしげちゃんの名前を呼び捨てにするの?」

と嫌味のように言われてしまった。その時、恭子は光代の鋭い目つきと気色ばむんだ顔に、恐怖を感じた。もしかしたらそれが光代の恐ろしい本性の一つで、もっと凄いものが水面下に隠れているのかもしれないと恭子は思った。未来の空に幾ばくかの不安が、垂れ込めているようなのだ。その顔つきはしばらく忘れられないものになるだろうと恭子は確信した。恭子は一見フランクな光代と重徳の会話に溶け込もうと努力しているのに、それが全く気に入らなかったようである。恭子にとって衝撃的であった。

恭子が重徳と結婚し、息子が奪われることで、光代が何か一波乱起しそうな予感がした。いいや、恭子にとっては大魔王のような存在になるような気さえした。もし、恭子の本心は何倍も孝詞の事が好きだという事が発覚したら、光代が必ず復讐するに違いないとさえまで思った。

恭子はただ結婚という契約で、生活を重徳から保護され、そのお返しとして、単なるやむを得ないセックスフレンドになろうとしていたのである。そして、孝詞と常に近くにいるためには、現時点では結婚という隠れ蓑が一番得策と思った。それ以上はあまり考えないことにした。今は進むことしかなかったのである。

 

やがて、光代はひとしきり話し込むと、重徳に愛想を振りまき、恭子には儀礼的な挨拶をして帰って行った。見送ってリビングに戻ってくると、恭子はすぐに呟いた。

「重徳のお母さん、手ごわそうだね?」

「そんなことないよ。僕はごく普通だと思うけど?」

「私は貴方の事をしげちゃんと呼ぶのと、さすがにロケットペンダントには引いてしまいました。私には考えられないわ・・・・・・

「そうかな。そんなにおかしいのかな?まあ、どの家庭でも他人から見たらおかしなことは幾つかあるのだから勘弁してくれよ。それより早く一緒にお風呂に入ろう。さあさっぱりしてビールでも飲もうよ」

 重徳はさっさと風呂に入る準備をし始めた。その勢いに恭子は反対する理由もないので従った。

 外からは拍子木を叩く音が聞こえてきた。自治会の人間たちが回っているようだ。恭子はそのカチカチという音が、耳の奥底に沈んでいくような気がした。 



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