目次
まえがき
まえがき
目次
第1章 無我表現試論
なぜ無我表現なのか
「悟り」はゴールではない
無我表現試論
無我表現という言語ゲーム~ウィトゲンシュタインについて
アフォーダンス理論について  
吉本隆明「関係の絶対性」について
コンピューターは無我か? ~コンピューター将棋に想う
伊福部隆彦著『老子眼蔵』復刊を望む
古谷栄一「錯覚自我説」について
第2章 音楽と芸能
我々が世界だ ~ マイケル・ジャクソン
無我表現の爆発としてのビートルズ論
世界中の人に自慢したいよ ~忌野清志郎のうた
形式と真実 ~黒人音楽とりわけブルースの歴史~
ジャズについての無我的雑感
政治と芸術―ショスタコーヴィチの場合
AKB現象にみる無我表現
能年玲奈という女優
鳥居みゆき
オードリーと有吉弘行に見る「あるがまま」とは
ムガタモリ――森田一義の無我的生き方
第3章 精神世界
クリシュナムルティの「世俗的生活」について
クリシュナムルティの暴露本を読んでみた
90歳のクリシュナムルティ
クリシュナムルティは「役に立たない」のか?
ダンテス・ダイジ試論 その1
ダンテス・ダイジ試論 その2
ダンテス・ダイジ試論 その3
ダンテス・ダイジ試論 その4
第4章 文学・書評
小林秀雄をめぐって
志賀直哉と太宰治と無我表現
村上春樹を読むという冒険
夢野久作『ドグラ・マグラ』にみる無我表現思想
リアリズムと夢と無我 ~~つげ義春インタビューを巡る雑感
書評、短評
第5章 創作・フィクション
ぐるごっこ 1
ぐるごっこ 2
ぐるごっこ 3
ぐるごっこ 4
ぐるごっこ 5
ヤマちゃんの悲喜劇 1
ヤマちゃんの悲喜劇 2
ヤマちゃんの悲喜劇 3
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まえがき

「無我表現研究会」が20116月以来、毎月発行している無料メルマガ「MUGA」もいつの間にか50号を越え、過去に書いた原稿も溜まってきたので、整理してみようと思った。

 

今から読み返すと、考え方が変わってきている部分もあるので、若干の加筆修正(削除も含む)を加えた。

 

考え方が変わった部分については註を加えている。

 

種々雑多に書き散らした過去の記事を、強引に5つのジャンルに大別してみた。

 

第1章では、「無我表現」という新しいジャンルについての総論的な考え方や、「無我表現」と親和性の高い哲学・思想について取り上げている。自分の見立てでは、ウィトゲンシュタインの哲学や、近年影響力を増しつつある「アフォーダンス理論」の考え方は、西洋哲学が立脚する自我(エゴ)の有用性を完全に否定するという意味において極めて「無我表現」的である。伊福部隆彦氏の思想(「老子眼蔵」)や古谷栄一氏の「自我錯覚論」は、日本における「早すぎた無我表現思想」と言えるかもしれない。

 

第2章では、芸能や音楽の分野(いわゆるサブカルチャーも含む)を、ほとんど個人的な興味で論じてみた文章を集めた。なるべく「無我表現」的な視点で見るべく努めたが、中には完全な趣味の世界も交じっている。こうした素材は旬の時期に取り上げることに意味があるので、今から見ればAKBなど今さらの感があるが、一応記録として載せておいた。

 

第3章では、一般的に見て「無我表現研究会」がジャンル分けされる場合に属せざるを得ない「精神世界(スピリチュアル)」な分野に関わる原稿を集めた。もともとMUGAは、一般に「スピ系」と呼ばれる分野で横行している「エゴまみれの表現」に対する反発がエネルギー源だったところがある。クリシュナムルティやダンテス・ダイジは、この分野で言う「ピンキリ」の「キリ」にあたる存在なので(ダイジについては異論あるかもしれないが)、「こんなエゴまみれの表現が横行する分野にも本物はいるんだよ」ということを強調したいという思いがあった。

 

第4章は、小林秀雄や志賀直哉のような、今では改めて取り上げられることも少ない(今は亡き)「ハイ・カルチャー」や、もう少し大衆性が高いが、「文学の香り」がする対象について書いたものを集めた。

 

第5章はフィクションであり、実在する人物や団体とは関わりはありません。

 

2015年11月  高橋ヒロヤス

 

 


目次

 

第1章 無我表現試論

 

      なぜ無我表現なのか

      「悟り」はゴールではない 

      無我表現試論

      無我表現という言語ゲーム~ウィトゲンシュタインについて

      アフォーダンス理論について

      吉本隆明 「関係の絶対性」について

      コンピューターは無我か? ~コンピューター将棋に想う

      伊福部隆彦著『老子眼蔵』復刊を望む

      古谷栄一 『錯覚自我説』について

 

第2章 音楽・芸能

 

      我々が世界だ~マイケル・ジャクソン

      無我表現の爆発としてのビートルズ論

      世界中の人に自慢したいよ~忌野清志郎のうた

      形式と真実~黒人音楽とりわけブルースの歴史

      ジャズについての無我的雑感

      政治と芸術~ショスタコーヴィチの場合

      AKB現象に見る無我表現

      能年玲奈という女優

      鳥居みゆき

      オードリーと有吉弘行に見る「あるがまま」とは

      ムガタモリ~森田一義の無我的生き方

        

第3章 精神世界       

 

      クリシュナムルティの「世俗的生活」について

      クリシュナムルティの暴露本を読んでみた

      90歳のクリシュナムルティ

      クリシュナムルティは「役に立たない」のか?

      ダンテス・ダイジ試論(1)~(4)

 

第4章 文学・書評

       

      小林秀雄を巡って

      志賀直哉と太宰治と無我表現

      村上春樹を読むという冒険

      夢野久作『ドグラ・マグラ』にみる無我表現思想

      リアリズムと無我 ~つげ義春インタビュー

      書評、短評

 

第5章 創作・フィクション

       

      ぐるごっこ(1)~(5)

      やまちゃんの悲喜劇(1)~(3)

 


なぜ無我表現なのか

なぜ無我表現研究なのか         

 

MUGA第1号、20118

 

新たな詩人よ

 

雲から光から嵐から

 

新たな透明なエネルギーを得て

 

人と地球にとるべき形を暗示せよ

  

――宮沢賢治『生徒諸君に寄せる』より

  

 創刊号ということもあり、今回は自分なりにこの雑誌のテーマである「無我表現研究」ということに関して思うところを書いてみようと思う。

  

 あくまでも僕個人の見解なので那智さんの巻頭言とは食い違ったり時として矛盾するところも出てくるかもしれないが、それもまた無我表現(?)の多様性を示すものと受け取ってもらうとして。

 

 僕の理解しているこの雑誌のスタンスは、「自我の表現欲求にまみれたこの世の中で、『無我=世界』の観点から表現されたものを発見し、紹介し、また自らも表現していく」というものだ。

 

  たとえば、日本の近現代文学についてみてみると、その作品のほぼすべては、自我の欲望、葛藤、あがきを表現したものだ。そのほとんど唯一の例外が、宮沢賢治の作品である。宮沢賢治の作品では、自我の側からではなく、「世界」の側からの風景が語られている。

 

 そういえば、「無我研」の第1回編集会議の後日、新橋で開かれていた「古本まつり」を覗いたら、『宮沢賢治の霊的世界』という本が目に飛び込んできたので思わず買ってしまった。この本の著者は詩人で、スピリチュアリストでもあり、“宮沢賢治には霊の世界が見えていた”という前提で、『銀河鉄道の夜』はじめさまざまな作品を論じている。

 

 宮沢賢治に霊が見えていたのかどうかは別に重要なことではないが、彼が自己を世界と分離したものとして見ていなかったというのは重要なことだ。

 

  僕には以前から、宮沢賢治の作品(文学作品)を目にするだけで涙が出て止まらなくなるという妙な習性がある。文章を読む前から、書かれている文字を目にするだけで半ば条件反射的に涙腺が決壊してしまうのだ。ベートーベンの曲(すべてではないが)を聴くときにも似たようなことが起こる。

 

 だから僕は人前で心を裸にして宮沢賢治を読んだりベートーベンを聴いたりすることができない。

 

 ・・・話が脱線してしまったが、自我ではなく「世界」の側からの表現を発見し、紹介し、「研究」するところにこの雑誌の意義がある。

 

 当然ながら、この「世界」というのは、いわゆる「セカイ系」と呼ばれるものでいう「セカイ」とはまったく違う。こんなことは言わずもがなだと思うので、触れるのは今回の一度だけにするが、「セカイ系」というのは、一言でいえば「自我=世界(セカイ)」とみなす世界観のことだと僕は理解している。

 

 一方、「無我研」では、自我というのはそもそも存在しない(=実在ではない)と考える。自我の抱えるすべての問題は、そもそも存在しないもの(=自我)を実在だと考えるところに根本的な原因がある。だから、あらゆる問題の究極にして唯一の解決方法は、「自我をなくすこと」というよりも、「ものごとをありのままに見ること」(=自我が存在しないことを見ること)なのだ。

 

 ・・・などとゴタクを並べるのは、厳密にいえば無我研の趣旨に反する。このようなことは、いわゆるスピリチュアルな「教え」がさまざまな場所ですでに語っていることであり、僕たちが目指すのは、ここから先の領域に属するからだ。

 

 とはいえ、今回は創刊号ということもあり、なんだかんだ言ってもこのメルマガを読む人は“スピリチュアルな”事柄に関心がまったくないわけでもない人がある程度いると思われるので、自分なりにいまの「精神世界」関連について思っているところを整理しておきたい。

 

 そこで僕自身の遍歴を、完全に忘れてしまわないうちに少し語っておくと(というのは霊的な事柄に関する過去の記憶が日に日に薄れていくので)、10代の終わりにドストエフスキーに目覚め、一時期は取り憑かれたように『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』などの長編を読み込んでいた。これらの長編のテーマをざっくり言えば「神は存在するか」ということであり、自分にとってもそれは切実なテーマだった。

 

 そんなあるとき、どう表現するかは難しいのだが、どうも神の臨在を実感したとしかいいようのない内的体験があり、その体験を自分の中で正当化し、納得し、折り合いをつけるために精神世界本の遍歴が始まった。

 

 マイスター・エックハルトやスエーデンボルグのようなキリスト教系神秘主義から始まって、ルドルフ・シュタイナーやグルジェフ/ウスペンスキーなどのインテリオカルティスト系、出口王仁三郎の大本教、生長の家や五井昌久などの神道系、クリシュナムルティや神智学、ラマナ・マハリシなどの教えに出会い、とある瞑想サークルなどにも出入りなどして、いっぱしの「精神世界オタク」になり下がっていたところに、何を間違ったか人生を方向転換して弁護士になろうと企てるなどというトチ狂った行動を取ってしまい、しばらく「霊的分野」への関心からは遠ざかっていた。

 

 しかし、なんだかよくわからないうちに、「無=すべて=いまここ」みたいな認識に目覚めてしまい、再びアドワイタ(インドの不二一元論)系の本を読むようになっていった。その中でも、エックハルト・トールという呑気なカピバラのような顔をしたオッサンの本を読んでえらく感心した。しかもこの人の本が全米で何百万部も売れ、ブームになっているというのを知ってさらにぶっとんだ。

 

 トールが言っていることは、いわば、ラマナ・マハリシやクリシュナムルティなど「コアな」精神世界本の口当たりをマイルドにしたようなものだが、平易でいてなお深みを失っていない。

 

 それからインターネットの世界を覗いてみると、あるわあるわ、いわゆる禅・ヴィパッサナー・アドワイタ系の「教え」を語るHPや個人のブログに大量に出くわした。その数は自分がざっと数えただけで数十に上る。こんな現象は、僕の知る限り、少なくとも10~15年前にはなかった。それは当時インターネットがそれほど普及していなかったという理由だけではないと思う。

  

 これは個人的な印象だけではないと確信しているのだが、エックハルト・トールの『パワー・オブ・ナウ(邦題は、「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」!)』と『ニュー・アース』(邦題同じ)という本が世界的なベストセラーになった時期、おそらく20世紀末から21世紀初頭にかけて、「精神世界」の潮目ははっきり変わったのだと思う。

 

 潮目が変わった、というのは、こういうことだ。

 

つまりそれまでの「自己探求の時代」から「無我の時代」へ。

 

陳腐だが敢えて言葉にすれば、万物の一体性、万物の相互依存性を前提とした、自他不二、宇宙即我の認識。

 

 こんな感じの、人類規模の意識の変化が起こっているように思う。しかも空前の規模で。「アセンション」という言い方には生理的な気持ち悪さを感じるが、この現象を「アセンション(意識の次元の上昇)」ととらえることも、もしかしたら可能なのかもしれない、と思うくらいだ。

 

 そんな中で僕がいま一番注目しているのは、故ダグラス・ハーディングという人だ。この人についてはまた別に書こうと思う。

 

 先述のとおり、最近、精神世界関係のブログやHPなどで、「悟り体験」を語る人が異常に増えている。しかしたいていは、その体験あるいは体験に至るプロセスを語ることに終始し、そこから先の「表現」がない場合が多い。他方、自分自身の「悟り体験」を語ったり「悟り方」を教えたりすることを飯のタネにしている人も結構いるようだ。そんな現象に対する問題意識というか危機感が「無我研」出発の動機になっている(と僕は思っている)。

  

 禅の世界では、「悟った人」の奇抜な言行録を「公案」として修行者に提示し、徹底的に考え抜かせる、というシステムがある。「片手で拍手したらどんな音が鳴るか」とか「生まれる前の顔は何か」とか、そもそも非合理な問題を合理的な知性で解決させようとして自我に根差す思考にスパークを起こすことを狙ったものだが、その根底には、「悟った人のやることは何であってもそれ自体が悟りの表現である」という思想がある。

 

 同じようなことで言えば、いったん「無我」の認識を持ってしまった人の「表現」は、それが何を扱ったものであっても、その中には「無我」の風香が宿るはずだ。そういう表現をできるだけ集め、紹介していきたい。そんな意気込みで始まったのが「無我表現研究」であり、このような試みを僕は他に知らない。

  

 宮沢賢治が描いたビジョンが、21世紀の日本で、ようやく本当の意味で実を結びつつある。

 

 冒頭に掲げた彼の言葉は、まさに今の僕たちに向けて発せられた言葉だと信じたい。

 

 2015年時点での註】

  

創刊号に寄せたこの文章の、基本的な部分の認識は今も変わっていない。ただしこの中で言及している「エックハルト・トール」に関しては、現時点では自分の評価がかなり変わっていることを明記しておく。

 

この文章を書いている時点では、トールは「クリシュナムルティに砂糖をまぶして口当たり良くしたもの」程度の認識だったのだが、それは致命的な誤認であった。正確に言えば、「クリシュナムルティに砂糖をまぶすこと」は、Kの本質を完全に変質させてしまう行為であり、天と地の開きを生じさせるものだ。両者を並列に論じることは味噌と糞を一緒にするくらいに愚かなことであった。トールの本(この後セミナーも盛んにやるようになったようだが)は、「探求者」を「エセ悟り」の境地へと誘うだけで、positively dangerous(積極的に有害)である。後に取り上げた「ダグラス・ハーディング」についても多かれ少なかれ同様のことが言える。

 


「悟り」はゴールではない

「悟り」はゴールではない

 

MUGA第2号、20119

 

2015年時点での註】

 

ここで自分は「悟り系」という言葉を使っているが、この言葉はその後世間ではまったく異なった意味で多用されたため、非常に誤解を招く表現となった。自分は今の「悟り系」という表現の用いられ方には批判的である(MUGAの代表那智タケシ氏の処女作のタイトルが『悟り系で行こう!』というのも皮肉な話だが)。

 

 もちろん「悟りはゴールではない」という認識自体は今も変わらないし、大筋で言いたいことは変わっていないので発表当時のまま掲載する。

 

わたくしといふ現象は

 

仮定された有機交流電燈の

 

ひとつの青い照明です

 

(あらゆる透明な幽霊の複合体)

 

風景やみんなといっしょに

 

せはしくせはしく明滅しながら

 

いかにもたしかにともりつづける

 

因果交流電燈の

 

ひとつの青い照明です

 

(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

 

―宮沢賢治『春と修羅 序』より

 

  

「無我」とか「悟り系」とか言われても、今一つピンと来ない、という人は多いのではないだろうか。というよりも、僕たちのやろうとしていることは、これまでにはない価値観の提示なのだから、ピンとこないのは当然なのだ。

 

そこで、より分かりやすくするために(逆効果かもしれないが…)、無我研が提示する価値観の一つである「悟り系」を、僕が勝手にキャッチコピー風に表現するとこうなった。

 

「ゴールとしての悟りではなく、スタイルのとしての悟り」。

 

「スタイル」などいうと、表面的でカッコつけてるだけじゃないかと思われそうだし、「悟りすました風に気取る」ことが「悟り系」だ、などという変な誤解も生みそうだ。

 

しかし、ここで言いたいのは、僕たちは、「無我が当たり前であるように振る舞う」姿勢をもう少し意識的にしてもいいのではないかということだ。

 

要するに、自我(エゴ)なんてものはハナから存在しないのだから、そんなものを有り難そうに、後生大事にする姿勢は本来「カッコ悪い」のである。

 

逆に言えば、「無我」だから偉い、とか「悟った」から偉い、などというのは、滅茶苦茶なハッタリでありゴマカシなのだ。だって「無我」なのが当たり前で、それが本来の姿なんだから、「悟った」も何もないのである。

 

言うまでもなく、「俺は悟った」というのは究極の自己矛盾である。誇らしげに「悟った」と宣言しているのは一体誰なのか?

 

「悟り」はゴールでも何でもない。それは前提条件であって、むしろ僕たちの生活はそこから始まるのだ。「悟り体験」を目指すだけで人生を終えるのは余りにももったいないし、「悟りの光明」を拝むのでは全然だめだ。「悟り」に価値があるのではなく、「悟り系」で生きていくこと、表現することにこそ価値があるのだ。

 

そろそろみんな、このことに気付こうよ。というのが、僕の理解する「無我研」のメッセージだと思うのだが、どうだろう。

 

「悟る」ためにいろんなセミナーに参加して、「悟った人」に何万円も(時には何十万円も!)払うのは滑稽なナンセンス以外の何物でもない。道端に一万円札をバラまくのをモッタイナイと思わないほどの恵まれた人ばかりなら別に文句を言う筋合いもないが、そんなお金があるなら、新しいムーブメントの発火点であるこのメルマガを有料化するから、それに払ってほしいものだ(嘘)。

 

そして、「悟り系」にかんしては、もっと大事なことがある。

 

「無我」で「悟り系」の方が、はるかに生きていくのが「楽」なのだ。

 

音楽雑誌なんかで、よく「本格派」のアーチストが、「苦しんで、苦しんで、苦しみぬいてこのアルバムを作りました」なんて2万字インタビューとかで誇らしげに語っている記事がある。かつての僕もそういう記事をさもありがたそうに読んでいたものだ。

 

でも、その人の「苦しみ」ってなんだろうとよく考えてみると、要するに近現代文学がさんざんやってきたところの「自意識との泥沼の葛藤」をよりスケールダウンしたものにすぎないのである。

 

それって、そんなにありがたく思って、評価するに値するものなんだろうか。

 

「自意識との泥沼の葛藤」がありがたく持て囃されるのは、それが人間として誠実な行為だという評価がどこかにあるからだろう。確かに、ごまかさずにみっともない自意識にまともに向き合うという作業は、ある意味では正直で誠実なのかもしれない。しかし、結局のところ、自我(エゴ、自意識)なんてものは存在しないのだから、そんなものにこだわる必要はないんだ、「こだわる」のは、その人が「こだわりたい」という理由以上のものはないんだ、という認識があるかないかで、「苦しみ」のとらえかたはだいぶ違ってくるんではないだろうか。

 

ある禅僧が、仲間たちに向けて、「悟った!」という喜びを伝えたくて書いた手紙を読んだことがある。その人はこう書いていた。

 

「・・・楽で、楽で、楽で仕方がない。」

 

そりゃそうだろう。

 

「悟り系」は楽なのだ。だってすべての苦しみの原因である自我(エゴ)という最大の重荷を捨ててしまったのだから。

 

もちろん、「悟り系」は何があってもヘラヘラ笑ってる、というのでもない。

 

オロオロするときもあるし、涙を流すときもある。

 

だから宮沢賢治の有名な「雨ニモマケズ」は、究極の「悟り系」なのだ。

 

雨ニモマケズ

 

風ニモマケズ

 

雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ

 

丈夫ナカラダヲモチ

 

慾ハナク

 

決シテ瞋ラズ

 

イツモシヅカニワラッテヰル

 

一日ニ玄米四合ト

 

味噌ト少シノ野菜ヲタベ

 

アラユルコトヲ

 

ジブンヲカンジョウニ入レズニ

 

ヨクミキキシワカリ

 

ソシテワスレズ

 

野原ノ松ノ林ノ陰ノ

 

小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ

 

東ニ病気ノコドモアレバ

 

行ッテ看病シテヤリ

 

西ニツカレタ母アレバ

 

行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ

 

南ニ死ニサウナ人アレバ

 

行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ

 

北ニケンクヮヤソショウガアレバ

 

ツマラナイカラヤメロトイヒ

 

ヒドリノトキハナミダヲナガシ

 

サムサノナツハオロオロアルキ

 

ミンナニデクノボートヨバレ

 

ホメラレモセズ

 

クニモサレズ

 

サウイフモノニ

 

ワタシハナリタイ

 

こういうものが「スタイルとしての悟り系」だ。これ以上にかっこいいものがあるだろうか。これ以上にポジティブな価値観があるだろうか。

 

最後に、僕が大好きな世界的ベストセラー作家でカピバラみたいなオッサン、「エックハルト・トール」風に締めくくってみよう。

 

2015年時点での註】

 

前稿の註で指摘した通り、自分は今では「エックハルト・トール」のことは「大好き」ではない。

  

将来の世代は、われわれより上の世代よりも、エゴ(自我)や自意識の問題に上手く対処できるだろう。彼らは自我が幻想であることを早々に見抜き、「世界」だけが存在することを当たり前の前提として生きていくだろう。

 

「世界=全体」の観点から行動できず、「分離した自己」にしがみつく、エゴの捕らわれを離すことのできない人は、未成熟な人間とみなされるだろう。

 

そして、そのときまでには「悟り系」という言葉はもはや不要になるだろう。

 

2015年時点の註】

 

 「悟り系」という言葉は、もはや不要である。端的に「無我表現的」でよいと思う。 


無我表現試論

無我表現試論

 

MUGA第4号、201111

 

さて、今回からは、このメルマガの趣旨に沿って、「無我表現」について何かを書いていきたいと思うのだが、無我表現の評論というのは、考えすぎるとできなくなってしまう。というか、考えに考え抜いた上で書くとむしろ頭でっかちな、エゴまるだしの評論になってしまう危険がある。なので、できるだけ肩の力を抜いてやっていこうと思う。

 

「評論」などと謳ってはいるが、少なくとも、ここでは「この表現は無我。この表現はエゴ」というレッテル貼りをするような評論をするつもりはない。

 

大切な前提がある。それは、悟りを開いた人でなければ無我表現ができないわけではない、ということだ。無我表現は、それ自体が「悟り」である。

 

無我表現とは、自他不二、自己即他者、我即世界、つまり「私と世界(他者)の間に隔たりのない表現」のことをいう。

 

厳密な話をすれば、「悟った人」が「作品」を通して表現する、ということではない。「作品」そのものが悟りなのだ。「作り手」という分離した存在が残っている限り、それはまだ無我表現ではない。

 

ごく普通の人(普段の生活ではエゴにまみれているような人)が、ふとした時に見せる「無我」な表現、あるいはエゴの塊のような芸術家や表現者がむしろ自分でも全く予期せぬ瞬間に生まれた無我の作品。そうしたものを拾っていければと思う。

 

次に示す有名なエピソードなど、「無我表現」の何たるかを端的に示す話だと思うのだが、どうだろうか。

 

三遊亭円朝といえば、名人と呼ばれる希代の落語家である。あるとき、この円朝が山岡鉄舟の前で「桃太郎」を一席しゃべった。ところが鉄舟は気にくわない。「おまえさんの桃太郎は、死んでしまっている。おまえは舌でしゃべるからいけない。舌を使わずに話してみろ」と鉄舟に言われ、以降熱心に参禅。2年間の修行の後、鉄舟に「桃太郎」の噺を聞かせたところ、「無舌居士」の名をもらったという。

 

鉄舟はこう言ったという。「今の芸人は、とかく人さえ喝采すれば、すぐにうぬぼれて名人を気取るようだが、昔の人は自分の芸をいつも自分の『本心』に問うて修行したものだ。しかし、いくら修行しても、落語家は『舌を無くす』ことをしない限り、本心は満足しない。役者だったら、身体をなくさない限り、本心は満足しないのだ」

 

先日、TBSラジオの『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』という番組で、『13人の刺客』や『一命』などの本格時代劇から『ヤッターマン』や『忍たま乱太郎』など幅広い作品を手掛ける、現在の日本を代表する映画監督といってよい三池崇監督のインタビューが放送されていた(話が脱線するが、TBSラジオはこの『ウィークエンドシャッフル』をはじめなかなか面白い番組をたくさんやっていて、最近ではポッドキャストなんかでも聞けるので重宝している)。そこでの三池監督の言葉に感心する箇所がいくつかあった。曰く、「最近の監督は個性を出そうとして流れに逆らおうと必死にもがいている感じがする。でも、流れに逆らっていることは傍から見れば止まっているのと同じに見える。自分はむしろ個性というものをいったん無くし切って、とことん流されていくことにしている。すると、結果的に思ってもみなかった個性的な作品が次々に生まれる。川の流れと一つになることで見えてくるものがある。流されていく先には必ず海があるのだから。」

 

三池監督の映画を一本もまともに見たことのない僕が言うのはおかしな話だが、彼の制作スタンスには「悟り系」の匂いを感じる。

 

2015年時点での註】

 

ここで自分は「悟り系」という言葉を使っているが、この言葉は世間ではまったく異なった意味で多用されたため、非常に誤解を招く表現となった。今の自分は「悟り系」という表現が適切であるとは思っていない。端的に「無我表現」ないし「無我的」でいいと思う。

 

~~~~~~~~~~~

 

無我表現とは? MUGA的な生き方とは?

 

MUGA第17号、201212

 

これまで、無我表現の実例として、文学(宮沢賢治)、芸能(AKB48)、建築(坂口恭平)、哲学(ウィトゲンシュタイン)といったさまざまなジャンルで活躍する人物を取り上げてきた。今回は、無我表現あるいはMUGA的な生き方というものについて改めて考えてみたい。

 

【悟りがゴール(目標)ではないということ】

 

MUGAでは「悟り系」というキーワードも使っているが、ここでいう「悟り」とか「無我」というのは、いつか達成すべき目標というものではない。

 

悟り系とは、自我を重んじない生き方のことをいう。悟りは目標ではなく、大事なのはむしろその先であり、何を表現するか、どう生きるかということだ。

 

「悟り体験」を求め続けて一生を終ってしまう人がいる。そのような人の生き方はまったく無我表現ではない。

 

無我というと、どうしても悟りとか禅とかいうイメージと結びつきやすいが、無我表現におけるポイントはむしろ「表現」の方にある。

 

「私は悟った」とか「私は無我だ(!)」という言及がいかに無意味なものであるかはウィトゲンシュタインが明らかにしている。具体的な「表現」を離れては、自我も無我も存在しない。

 

大切なのは、その人が過去に「悟り体験」を得たかどうかではなく、今その人が無我表現であるかということ<だけ>だ。

 

過ぎ去ってしまった「悟り体験」にしがみつき、そのイメージを反復しようとすることは、無我表現と対極にある。

 

あらゆる体験は、それが「私の体験」である限り、どうということはない。

 

【無我表現時代の到来】

 

よく誤解を受けそうなのだが、「無我な人(悟った人)が無我表現を行う」のではない。

 

無我表現とは、表現者と表現の間に分離がない状態のことをいう。無我夢中で踊っているAKB48のメンバーは、それが表現者(エゴ)のいない表現である限り、無我表現である。

 

表現者と表現の間に分離があるならば、それは無我表現ではない。表現するものと表現されるものの間に分離がないならば、「批評」という行為さえ無我表現たりえる。文芸批評の大家と呼ばれた小林秀雄の文章には、そのようなものがある。

 

もちろん、無我表現はトランス状態(忘我)とは異なる。忘我は一時的に自我を忘れることにすぎない。忘我(エクスタシー)という「体験」が終わると、再び自我が目を覚ます。

 

無我表現の中では、何かを体験する主体さえもがなくなる。

 

何が無我表現かどうかについて堅苦しく考える必要はない。無我表現は自我表現より優れているなどと考える必要もない。結局のところ、この宇宙全体が一つの無我表現である。

 

では改めて無我表現などと言う必要もないのではないか。

 

そう問われたら、それが時代の必然的な流れだから仕方がないと答えるしかない。

 

【無我表現と相容れないもの】

 

目覚めよ、などと言う人を警戒せよ。

 

悟りの開き方を教えるなどという人を警戒せよ。

 

霊的進化のためなどという人を警戒せよ。

 

特に、その文句の前にさりげなく「○○万円払えば」とか「この団体に入れば」というフレーズが加わった場合には。

 

あなたは悟りや目覚めの名のもとに誰かの奴隷になろうとするのか。

 

それは無我表現とはまったく相容れないやり方である。

 

【無我表現の発見】

 

無我表現研究会の目的の一つは、埋もれている無我表現を発見し、積極的に取り上げていくことにある。

 

それは町の隅っこで生まれている、誰からも注目されないひっそりとしたものであるかもしれない。あるいは、俗悪すぎるとして良識ある人々が目を背けるような表現かもしれない。

 

表現者自身を含む誰もがそれと気づいていないような無我表現に注目し、それを紹介していけたらいいと思う。

 

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無我表現研究会について

 

MUGA第26号、20139

 

2011年の初夏にフリーライターの那智タケシ氏が「無我表現研究会」を立ち上げ、月1回の無料メルマガを発行し始めてから、早くも2年が過ぎた。

 

那智氏が書いた、会発足の趣旨という文章には、こう書かれている。

 

(引用始め)

 

 「私」「私のもの」「私の国」「私の神」というエゴイズムに基づいた価値観、表現が蔓延している現代世界において、「私」ではなく「世界」という単位からの表現を志し、研究、創造、評価、発表することを趣旨とする会である。

 

 この場合の「世界」は、=「無我」であり、さらに言えば「私」性の超越である。表現ジャンルは、芸術、科学、スポーツ、芸能、宗教、哲学、生活等問わない。新たな表現の創造、評価による文化的価値の転換、革命を目指す。

 

(引用おわり)

 

これまでに、無我表現研究会は、月に1度のMUGA発行を通して、上記の趣旨に則り、新たな表現の創造、評価による文化的価値の転換、革命を目指してきた。

 

その中身は、詩や小説の発表、芸能論など、一見すると呑気な趣味的同人誌にすぎない。しかしそれらは、既存の媒体にはない「視点」を含んだものであった。そして、もしこの活動に何らかの価値があるとすれば、この「視点」の提示に尽きるといってよい。

 

すなわち、「無我表現」というジャンルの発見、提示、紹介である。

 

無我表現とは何か、については、MUGA第1号の拙稿「なぜ無我表現研究なのか」に詳述した。

 

会が発足したのは2011年の東日本大震災と福島原発事故の直後だった。2年半が経過した今も、原発事故は収束するどころか、最終的な処理の目途が絶たないまま海洋に汚染水を撒き散らし、放射能汚染はさらに深刻の度を増している。

 

このエゴに塗れた末期的文明症状を呈している世の中にあって、「無我表現」こそが未来への希望である。

 

無我表現とは崇拝されるべきものでも、自我(エゴ)の努力によって達成できる何物かでもない。それは純粋な聖性の現れである。

 

無我表現は、至るところに存在するが、それが正当に評価されることは稀である。少なくとも、それが「無我表現」であるという観点から評価されることはなかった。

 

MUGAにおいては、敢えて「スピリチュアル」から遠い場所で無我表現を見出そうとしてきた。そこには、安易な自己啓発(自我啓発=自我満足)系スピリチュアルへのアンチテーゼ的な意味合いも含まれていたといえる。

 

自分が取り上げて来た種種雑多な素材から考えると、無我表現にはいくつかの種類があるように思う。

 

・本人の活動の中でまったく無意識に(文字通り無我夢中で)表現されるもの。

 AKB、能年玲奈など

 

・自我表現が突き抜けて無我表現になっているもの

 ビートルズ、マイケル・ジャクソンなど

 

・生き方そのものが無我表現となっているもの

 クリシュナムルティ、無為隆彦など

 

1番目のものは、瞬間的な魔法のようなもので、たいてい一時的なもので終わる。

 

2番目のものは、インスピレーションが続く限り持続する。

 

3番目のものは、その生自体が無我表現である。

 

上記以外に、「無我表現的」な存在として、坂口恭平、タモリなどを取り上げた。

 

誰もが知っているものの中に無我表現を見出すという意味で、記事の同時代性も大切だと思う。

 

また、無我表現について哲学的な見地から語っているものとして、ウィトゲンシュタインやアフォーダンス理論、無為隆彦氏の「老子眼蔵」について取り上げた。小田切瑞穂博士の潜態論も、無我表現の範疇で捉える事ができる。

 

今後の課題としては、潜態論や老子眼蔵など、わが国に芽生え、このままでは忘却されるおそれのある貴重な無我表現思想のさらなる探究・紹介・普及、無我的芸術家の表現活動との連携といったことが挙げられる。特に、文芸、絵画、デザイン、映画、音楽、彫刻など、アートの分野における無我表現を発見していけたらいいと思う。

 

ずいぶん堅苦しい文章になってしまったが、それぞれの執筆陣がアンテナを張り巡らし、自由に表現していく中でいろんなものが自然につながっていけばいいと思っている。その思いは当初から変わっていない。



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