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Scene8      ――トゥエル・ジャック

※パブー様のおすすめピックアップにランクインいたしました。皆様ありがとうございます。(15/10/1)

 

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    8

「真剣勝負?」

 

 脱脂綿に消毒液を染み込ませながら、トゥエル・ジャックはゼールマンの言葉に問いを挟んだ。

 

「マーカスさんは、ただの酒場の喧嘩だったって言ってましたけど。酒場での口論が行くところまで行って、表で刃物を振り回す騒ぎになったんだって。関係ない人たちに被害が出るといけないから、ゼールマンさんたちが行って取り押さえなくちゃいけなかったんでしょ?」


「うむ。大筋はそれで合っている。が、取り押さえなくてはならなかったのは市民への危害のみが理由だったわけではないぞ。――……おお、染みる染みる。もう少し優しく頼む、トゥエルくん」

 

 街警団第七支隊隊長ゼールマン・ミラドニアは恵まれた体格の大男であり、白髪混じりの五分刈り頭もあいまって、まるで灰色熊のごとき印象を見る者に与える。そんな彼が懇願する相手は、年齢も体重も三分の一くらいしかないであろう少年だった。


「――ああ、なるほど。喧嘩してる当人同士の為でもあったって言いたいんですね、ゼールマンさんは」


 縫ったばかりの側頭部の傷に消毒液を塗る手つきと同じなめらかさでトゥエルは隊長の言わんとすることを察した。ゼールマンは再び「うむ」と頷き、


「事情がどうであれ、私闘で相手を殺せば重罪だ。ましてや殺されてしまった側の人生は、最早それきりになってしまうのだからな」


 ぽたり、ぽたり。街警団第七支隊の詰め所はその苦しい台所事情を体現するかのごとき安普請で、休憩所の天井の穴からは少し前から降りだした雨の雫が滴っていた。


 貴族たちのお抱え私兵である儀銃兵マスケッターズなどと違い、街警団には拠点ごとの専属医師など付いていない。レイケイ診療所は第七支隊詰め所から徒歩十分の立地であり、それゆえ確保した犯人や隊員に怪我人が出た場合、そこに勤める医師や医師見習いが駆り出されるのが常だった。そんな理由でトゥエル・ジャックは頻繁にこの詰め所に出入りしており、いまや隊員の全員と顔見知りになっている。


 男所帯の詰め所の休憩室兼食堂は果実の皮や空き缶空き瓶や串焼きの串などが転がり、梁には蜘蛛の巣が放置されたりしていて、お世辞にも清潔と言い難い。遡ること一時間ほど前、酔漢ふたりを取り押さえて詰め所へ戻ってきたゼールマンは頭部に裂傷を負っていたが、当直の自分がこの程度の怪我で引っ込むわけにはゆかぬと言い張って休憩室の椅子に腰を下ろし、やってきたトゥエルにこの場で傷を縫い合わせたのだった。


「――さっき拘禁室で、その喧嘩の当事者の人たちの手当てをしてきましたけど」念入りに消毒を終えたトゥエルは脱脂綿をくずかごに放り、そして隊長に問い掛ける。「片方は水夫さんで、相手の若い人はたぶん良いところの生まれの、たぶん兵法私塾の生徒さんか何かですよね。どちらも不貞腐れてはいましたけど、人を殺すような人たちにはぜんぜん見えませんでした。……僕にはよくわかんないですよ。こういう喧嘩の挙句に腕とかを斬り飛ばして診療所に運ばれてくる患者さんって時々いるんですけど、いくら酔っ払ってたとしたって、どうして酒場での口論で剣を抜かなくちゃいけなくなるんです?」


「――ふむ、そうだな。一言で言えば、“彼らが馬鹿だから”で済んでしまうが。それではあんまりだというなら、少し長くなってしまうかもしれんな。

 例えばトゥエルくん。君がメスで患者さんを切るときは、どんなことを考えている?」


 問い返された少年はピンセットの先を宙に彷徨わせながら答える、「そりゃあ……切開する理由によると思いますけど。共通してるのは手が滑らないようにしようとか、脈や神経を傷つけないようにしようとか、あまり傷口が大きくならないようにしようとか……」


「では、脈を傷つけないようにするのはどうしてだ?」


「そんなの当たり前じゃないですか。循環系だって臓器の一部ですから。2リットルも血を流すだけで、人間は簡単に死んじゃうんですから」


「うむ。君のように頭の良い子には信じがたい話かも知れんがね、トゥエルくん。酒場の喧嘩でやすやすと光り物を抜くような奴輩は知らんのだ。己の振り回す出刃包丁が喧嘩相手の皮膚のすぐ下を走っている穴あきパスタブカティーニくらいの血管を断ち切ってしまったら、そいつはものの数分で失血死してしまうという至極単純な理屈を。いや、話に聞いてはいるのだろうが、理解しておらんのだ。だから取調室で、裁判所で、監獄で、奴輩は涙ながらにこう言うのだ――"そんなつもりはなかったんです"とな」


「……そういうものなんですか」


 いかにも納得がいかないという顔で相槌を打つ少年に、ゼールマンは苦笑しながら話を続ける。「そうだとも。喧嘩の原因だって大したことじゃない。肩がぶつかったとか、顔つきが気に食わないとか、おおかたその程度のものに過ぎまい。 だというのに、奴輩は何故わざわざ決闘よろしく立ち合うような真似をするのか? 酒の勢いもあるだろう。横にいる仲間への見得もあるだろう。が、ひとつ忘れてはならんことは、帯剣している者同士だからこそ芽生える感情だ。彼らは相手の携えた曲剣サーベル舶剣カトラス、あるいはマヤト剣カタナを見て思うのだ。“俺とこいつ、いったいどっちがなんだ?”と」


「ええっと……つまり、腕比べがしたいとか、そういうことなんですか?」少年は呆れきったように言う。「信じられません。大怪我したり、最悪死ぬかもしれないのに、そんなことが理由だなんて」


「トゥエルくん。君は『ダオネル川の中州の決闘』の話を知っているか。あるいは『マドンセン城塞の一騎打ち』を?」

 

「そりゃ、まあ。ダオネル川の決闘の話は『勇者ウェルヘングリンの勲』、マドンセン城塞での包囲戦の顛末は『傭兵王アルガルク物語』のクライマックスですよね。芝居の演目にもよくなりますし、アーヴィタリスに住んでる子供たちだったらみんな知ってるんじゃないですか」


「うむ。ウェルヘングリンやアルガルクだけでなく、剣奴マナンや騎士公ジンドディールの逸話も有名どころだな。これらの成り立ちは伝記だったり、実話を脚色した脚本だったり、あるいは完全な作り話だったりと様々だが、共通しているのはどれも優れた剣の腕によって栄光を勝ち取った男たちの物語だということだ。すべての少年たちはその物語に魅入られ、ただの木の枝をウェルヘングリンの魔剣エトに、角材をジンドディールの星屑の牙ライオネスに見立て、路地や広場でちゃんちゃんばらばらと――」


「僕はそんなことしませんでしたけど」


「……ゴホン。の少年たちはその物語に魅入られ、路地や広場で英雄の名を借り決闘を繰り広げる。まあ、ごっこ遊びというやつだ。
 これらの物語はアーヴィタリスのみならずサンクタリス連邦全土、いや大陸ペリンギル中で語り継がれている。おれは歴史学者ではないから的外れな意見かもしれんが、元を辿れば若者を兵士として駆り出す為に鼓舞せんとした政策の一環などだったのだろう。しかし何百年もそれが続けばやがて文化となり、我らの精神に根を下ろすようになるのだ。つまり我々は――いや、我々の多くは――単純に好きなのだよ。命と命の鍔迫り合い、血沸き肉躍る剣刃の閃きというやつがな。だから銃器によって戦場の趨勢が決する現在いまとなっても街のそこかしこに剣の扱いを教える私塾が存在しているし、謝礼さえ積めば高名な指南役から手ほどきを受けることも出来る。まあもちろん、いい大人になれば卒業するものではあるのだが……それでも時たま、本物の刃を使ったちゃんばら遊びをする奴らがいるというわけだ。本人たちは真剣勝負のつもりでな」


「……なんだか聞けば聞くほど、馬鹿みたいな話に聞こえるんですけど」


 ゼールマンの話を慎重に吟味し、トゥエルはなお呆れたままの顔で感想を述べた。少年の反応は男のほうでもまったく予想の範疇だったらしく、彼は軽く肩をすくめて、「だから最初に言ったろう。“馬鹿だから”で済んでしまう話だとな」と言った。


「しかし、連中が馬鹿になってしまった理由……つまり、流血に対しての想像力が乏しくなってしまっている理由もちゃんとあるのだよ。
 旧マルセア公国のサンクタリス併合から早四半世紀。幸いにこの街は、直接火の手があがるような争乱に巻き込まれていない。大離宮の乱もエルデニー街道の盗賊団もマヤト狩りも過去の話だ。経済は好調で政治もそれなりに安定しているし、貧民窟やガスベーニュの暗黒街でもないかぎり市中には我々が巡回している。
 つまりだな。剣技を教わることは難しくないが、実際にそれを振るう機会は、この街においては激減しているということだ。

 いかに技術を磨いても、それを振るう場所がない。評価されない。大抵の人間にとって、これは堪える。そうして長いこと鬱屈を溜めていた者が、自分と同じような境遇の者と酒場で喧嘩をはじめてしまったらどうなるか? ――……」ゼールマンは休憩室の隣のテーブルで寛いでいた部下のひとりを見やり、「おい、ライズベック」と呼ばわった。


「うっす」


「“この野郎ナメやがって、テメエのぶら下げてる道具は飾りか? そうじゃないなら証拠を見せてみろ”!」


 ドン! 椅子に座ったまま、ゼールマンは拳をテーブルに叩きつけてわざとらしく叫んだ。 ライズベックと呼ばれた髭もじゃの隊員は即座にテーブルを叩き返し、


「“そっちこそいい度胸だ! もう謝っても許さねえ、オイラのヤッパの錆にやるからかかってこい”!」


 むくつけき男たちはテーブルを挟んで闘犬のように睨み合い胸倉を掴み合い、それからきっかり三秒、ゼールマンはぱっと顰め面を平静に戻してトゥエルのほうを振り返った。


「――とまあ、こんな具合になるわけだ」


 少年は特に驚いたふうでもなく答えた。


「暴れるのはまだ早いですよ、傷が開いちゃいますから」


 はっはっは。ゼールマンとライズベックは互いの拳をぶつけて盛大に笑いあう。居合わせた他の隊員も腹を抱えてげらげらと笑った。トゥエルもまた、口の端に笑みを浮かべながら包帯の束を取り出し、「ほらもう、おとなしくしてください。包帯巻きますよ」と言った。


 すでに夜も更け、ランプがひとつきりの休憩室は本を読むにも難儀するくらいの明るさしかない。それでも、少年は淀みない手つきで半球状の頭部に布を巻きつけていく。


「――いやしかし。いつもながら見事なものだな。君ほど上手く傷を縫ったり、包帯を巻いたり出来る者は大人の医師でもそういないだろう。どうだマーカス、ライズベック。まるで魔法の業のようじゃないか」


「おだてないでください。ちょっと手先が器用なだけで、僕なんて先生にはまだぜんぜん及ばないんですから。これからまだまだ、たくさん勉強しなくちゃいけないんですから」少年は言った。「それに、この世には魔法なんてありませんよ」


 鋏で包帯の結び目の横を切りつつ、「じゃ、糸を抜くのは一週間後ということで。ああそうだ、良い機会だしその間くらいはお酒を控えてくださいよ。約束ですからね」


 むう。包帯熊の喉から不満げな唸りが漏れる。「難しいことをあっさり言ってくれるな。酒は百薬の長だというに……そうだ、痛みを紛らわすためにも少しくらいだったら――」


「ダメです」


 トゥエルはにべもない。ゼールマンは大きく溜め息をつき、「やれやれ、小さい先生は手厳しい。レイケイ君だったらそんな殺生なことはいわんだろうに――……」


 そのときだった。廊下のほうからバタバタと足音が聞こえたかと思うと、


「隊長ッ! 隊長はいますか!」


 そう叫びながら休憩室に駆け込んできたのは長めの黒髪をびしょぬれにした若者だった。雨の中をよほど急いで走ったのだろう、色あせたズボンの腿のあたりまで跳ね返った泥水で汚れている。


「どうしたデン、今日は非番だったろう」


 薄暗がりに部下の顔立ちを判別し、ゼールマンが落ち着いた様子で訊ねる。入隊二年目のデン・ミッケンはぜいぜいと肩で息をしながら、


「それがですねっ! アトレフ通りの救貧院で、が出たって騒ぎで! 早く行かないと――!」


 ほんの数十秒前まで和気藹々としていた詰め所の雰囲気が、そのたった一言で凍りついた。デンやトゥエル、他の隊員たちも、言葉もなくゼールマンのほうを見つめる。――ぽたり、ぽたり。雨漏りの音がやけにうるさく聞こえるくらいの沈黙。渋面を浮かべたゼールマンは一瞬だけ天井を見上げ、「――今月、もう三度目か」と呟いた。


「ライズベック! オーノ!」それから、彼は厳しい隊長の顔を取り戻して怒鳴った。「取調室からキールを、それと仮眠室からジベンとラミックをたたき起こして連れて来い。装備を揃えたらデンの先導で現場に向かえ。マーカスはここで待機。巡邏に出ている連中が戻ってきたら二組まで救貧院のほうに送れ。おれは――……」


 そこで、ゼールマンは言葉を切った。すぐ隣にいたトゥエル・ジャックが思わず、といった様子で彼の袖を掴んでいた。 ゼールマンは安心しろ、と言わんばかりに少年のつむじに手を乗せ、続けた。


「ライズベック。キールに現場の指揮は任せると伝えろ。おれは教会のえらいさんに話を通してから行く。もしおれが合流する前に教会の手先と鉢合わせたら、死体だけ渡してお引取り願え。ああそれと、灯りを多めに持っていけ。雨で蟲が少ないぞ」

 

 ――以上だ。出動!


 その合図とともに隊員たちは慌ただしく立ち上がり、言いつかった役割をまっとうするため休憩室から駆け出していく。残された少年はゼールマンの服の袖から手を離し、包帯を巻いたばかりの彼の頭を見上げて言った。


「隊長さん。今日はおとなしくしてくださいね、後生ですから」


 ゼールマンは朗らかに笑ってそれに答えた。


「わかっておるわかっておる。なぁに、キールたちも場数はそれなり踏んでいるからな。油断せん限り、怪我などすることもないだろうよ。――おおそうだ。もう遅いからな、君の診療所までの帰り道を、誰かに送らせねばな」


「大丈夫ですよ、一人でじゅうぶん帰れます。このへんの通りなら三軒に一軒は顔見知りですし、何かあったら駆け込みますから。それより隊長さん、急がないといけないんじゃありませんか?」


「む……すまんな。正直人手が足りんのだ。しかしトゥエル君、くれぐれも気をつけてくれたまえよ。レイケイ先生にもよろしくな」


「はい。もし怪我人が出たら、叩き起こしてくださいね。何時でもいいですから」


 そしてゼールマンも休憩所から出て行き、一人残ったトゥエルは診察カバンに道具をまとめはじめる。廊下では隊員たちがばたばたと走り、雨具やランタン、大人の背丈より長い捕獲杖などを渡しあっている。指示を受けたり発したり、軽口を交わしあったりする彼らの言葉の中で、「嫌な雨だな」という誰かの呟きだけが、奇妙にトゥエルの耳に残った。



          ▽    ▽    ▽

 


 虻に蜂、蝶や蛾に限らず、羽虫というものは水に濡れるのを嫌がる。アーヴィタリスの夜を照らす夜光虫も例外ではない。そのため今日のような雨の日は、下町の夜道は普段よりずっと暗く感じられる。濡れるのが嫌なのは人間だってもちろん一緒で、通りを行きかう人々の数はいつもの十分の一にも満たない程度しかない。


 街警団の詰め所を出たトゥエル・ジャックは、そんな雨の夜道を鼻歌混じりに歩いていた。


 いくら視界が悪かろうが、彼にしてみればほとんど毎日歩いている道に違いはない。左右に並ぶ民家はだいたい顔見知りだし、ごろつきがたむろする路地や酒場などはあらかじめ避けて通ることが出来る。貧民窟ほどではないにしろ、決して治安が良いとはいえない下町の夜歩きであったが、護身用の寸鉄など帯びていなくても彼は危険などまるで感じていなかった。それどころか今は、診療所にたどり着くのがもったいないとすら思っている。その理由は帰り際にゼールマンから貸し出された、一本のこうもり傘のためだった。


「~♪」


 ほんの十年前か二十年前までは、こうした鉄の骨を組み合わせた傘は大変な高級品――つまり貴族の持ち物だった。現在は素材や装飾の簡略化によって生産量が増えたとはいえ、やはり貧乏人にはなかなか手の届かないシロモノであることに変わりはない。ゼールマンからして「付き合いのある成金商人から心付けとして寄越されたものなのだ」などと言っていたし、下町医者の徒弟に過ぎないトゥエルは当然、自分用の傘など持ったためしがなかった。


 馬車の幌を連想させるどっしりしたそのこうもり傘は、小柄な少年には不釣合いなくらいの大きさで、彼の細腕にはいかにも重そうな感じがした。しかしトゥエルはまったく気にすることもなく、鼻歌に合わせて傘の軸をくるくる回転させてみたり、煤混じりの泥水が跳ねるのも構わずステップを踏んでみたりしている。


 どうしてこんなに浮かれた気分になっているのか? 考えてみると自分でも不思議な気がする。キールやライズベックたちは今ごろ危険を伴う任務の真っ最中のはずだ。もちろんそれが街警団の職責なのだし、彼らの実力をじゅうぶん信じてもいるが、だとしてもちょっと不謹慎というものなのではないか。いくら珍しいからといって、たかが傘一本でこうもはしゃいでしまうのは自分らしくない。もしかして、大人の仲間入りでもしたつもりになっているのだろうか? だとしたら、まるでさっきゼールマンの言っていた、木の枝を振り回してちゃんばらごっこに興じる子供みたいだ。


“僕はそんなことしませんでしたけど”――さきほどの会話のとき、ゼールマンの主張をトゥエルはそう否定した。たしかにそれは本当で、彼は英雄の立志伝に憧れることもなかったし、魔法の剣を欲しいと思ったこともなかった。師に拾ってもらうまではそんな物語に触れる機会はなかったし、後に夏至祭で勇者ウェルヘングリンの芝居をはじめて見た時分には、すでに医者になって怪我や病に苦しむ人たちを救いたいという具体的な目標を胸に抱いていた。


 でも、そういえば、自分だってはじめて白衣に袖を通したときはこんなふうに浮かれていたかも知れない――……。


 “にゃあ”


 診療所までもう半分といったところの、ひと気のない市民学校の近くで彼はふと立ち止まった。理由はわからない。猫の鳴き声を聞いたような気がするけれど、そんなものは珍しくもなんともないはずだ。鮮魚市場近くなら生ごみ目当ての野良猫がうじゃうじゃといるし、下町の住民にとっては発情した猫の鳴き声や、縄張り争いでどたばた喧嘩する音など日常茶飯事の生活音の一部でしかないのである。このときのトゥエルもやはり、猫の鳴き声に反応したというつもりはなかった。


「……?」


 浮かれた気分がふっと遠のき、彼は迷子のようにその場できょろきょろと周囲を見渡した。降りしきる雨。月の影すらも見えない真っ暗な夜空。閉店中の古道具屋の軒に止まっている夜光虫の翅の青白い灯り、斜め向こうの民家の鎧戸の隙間から漏れているオイルランプのオレンジ色の灯り。すぐ左手側には真っ黒い壁のような三階建ての校舎と、それこそ猫の額くらいの狭さの運動場が見える。ちなみに市民学校とはアーヴィタリスの六歳から十歳の子供たちが読み書き計算などを教わるための学び舎だが、必ずしもすべての子供たちがそこに通っているわけではない。裕福な家庭ならば家庭教師をつけるか寄宿学校に入れるかしてもっと良い教育を受けさせるし、貧乏な者には金まで払って大事な労働力である子供を預ける余裕はないからだ。トゥエル・ジャックもまた、今までこういった学校に通ったことはない。


 昼間ならばこの付近は生徒たちの騒ぐ声が絶えないけれども、さすがに夜半、しかもこの天気では子供どころか掃除夫たちの姿も見えない。何か釈然としない気持ちのまま、トゥエルは再び歩き出そうとし……


“……この、においは……?”


 少年はスンと鼻を鳴らして空気を吸い込む。潮の臭い、近くを流れるドブの臭い、馬車が落としていった糞の臭い、イワシか何かを焼いているらしき香ばしい臭い。雨のおかげで、普段の煤っぽさは幾分マシになっているように感じられる。


 そしてそれらに混じって、ほんのわずかに漂う臭いが彼の意識を引き付けた。いまさら何の臭いかと吟味するまでもない。トゥエル・ジャックにとっては朝のスープ以上に嗅ぎ慣れている、これは……


“血のにおい……?”


 そちらに何が見えるというわけではない。しかし少年の視線はおのずと、すぐ斜め前の細い路地の闇へと向けられていた。鼻をうごめかしても今は血のにおいは感じられない。雨だし屋外だし、臭いが拡散するのは当然といえば当然といえる。


 先ほどまでの浮かれた様子はどこへやら、彼は硬直した面持ちでそちらへと歩み寄り――……


「だ、大丈夫ですかっ!?」


 愚かな質問だ。頭の片隅でそう自虐する。あんなにも血を流して大丈夫な人間などいるわけがないというのに。


“――女の人、若い、自発呼吸あり、呼びかけに反応なし、14、5歳くらいか?”


 血と泥の混じった雨溜まりに膝を立てつつ、トゥエルはほとんど暗闇と同一化しているその怪我人の状態を診ようとする。傘などではなくカンテラのひとつも借りてくるのだったと強く思う。動かして良いのか、傷口の位置はどこか、そもそもちゃんと手足はくっついているのか、そんなことすらも俄かにはわからない。


“意識やはり無し、主な出血は頭部と右膝から――複数人による暴行? 脈拍は、”


 少年はほとんど手探りで彼女の右手首であろう部位を手に取る。皮膚がずいぶんと冷たい。どれくらいのあいだ雨に打たれていたのだろうか。それとも出血のせいか。あまりにも血が流れ出すぎていると、どんな処置を施しても助けられない。2リットルも血を失うだけで人間は簡単に死ぬのだ。そして少女の脈拍を測ろうとしたトゥエルの脳内に、まるでハンマーで殴られたかのような衝撃が走った。


“脈が無い”


 そんな馬鹿な。自発呼吸はしてるのに。少年はあっけにとられて目をしばたかせる。たとえ目蓋を閉じていようが逆立ちしていようが、いまさら手首を走る脈の位置を間違える自分ではない。暗闇に浮かび上がるシルエットにはぐったりとした五本の指が見て取れ、やはり木の棒などを掴んだわけではないことがわかる。――刃物で切り落とされたのか? いやそんなこともない、肘も肩も胴体もちゃんと手首とつながっている。しかしその感触は冷たくて硬くて、人のそれとは決して思えない。


 そのとき一匹の夜光虫が路地裏に飛び込んできて、青白いひかりが彼らの頭上から降りそそいだ。そして少年はようやく知った。手首を触っても脈が取れなかった理由を。いったい自分が、何を見つけてしまったのかを。


加工生命グラフトロイド、か……”


 少年は掴んでいた手首をゆっくりと下ろす。


 夜光虫に照らし出された少女の皮膚は、その半ばが赤錆びた金属で覆われていた。


 加工生命。あの光る蟲どもと同じ、人為的に“手を加えられた”生命体。こんなおかしな身体の人間が、他にいようはずもない。 ついでに言うなら、どうして彼女がこんな場所で、こんな状態で倒れているかもなんとなくだが想像がついた。およそ十年前、大陸協定によって加工生命の製造が禁止された理由は彼らが子供を作るとその形質が遺伝してしまうからということになっている……が、市民の一部では他の病気と混同され、“性交渉でうつる”だの“触れただけでうつる”といった誤解が広まってしまった。そのため現在では、彼らは二等市民のマヤト人以上に迫害されているのだ。 トゥエル・ジャックは過去、二度だけ加工生命を見たことがある。そのどちらもが暴行された死体としてであり、生きた加工生命を見るのはこれがはじめてだった。


“……もうすぐ、三度目の死体になるかもしれないけれど”


 夜光虫が飛び去り、再び闇に包まれた路地裏で、彼はそんなことを思った。



          ▽    ▽    ▽

 


 苦労したのは片手で玄関の鍵を外すことと、濡れた靴で寝床兼物置の地下室へ降りることだった。


「よ……っと!」


 真っ暗な地下室の中を記憶とつま先の感覚のみを頼りに進む。どうにか辿り着いた寝台に意識のない少女を下ろし、トゥエルはその場でしゃがみこんだ。一刻を争う状況なのは理解していても、すぐには動けないくらい息が切れてしまっていたのだ。 医療用具の詰まった鞄と、ゼールマンに借りた大きな傘。そして自分より頭半分ほど背の高い加工生命の少女。それらの荷物を担いで雨の中を歩くのは、まだ身体の育ちきっていない彼にはかなりの重労働だった。


“それにしても――”


 身長差はともかく、あきらかに痩せぎすな彼女がこうも重く感じられたのは、服が雨水を吸っていたせいだろうか。


“それともやっぱり、皮膚が金属だからなんだろうか?”


 手探りでマッチを探し、オイルランプを灯す。朝に交換していた寝床のシーツは雨水と血ではやくもぐしょぐしょになりつつあった。暖炉の火を熾しつつ、トゥエルはあらためて自分が連れ込んだ少女のことを見る。肩口くらいまでの真っ黒い髪と起伏の少ない細面の顔立ち。もしかしてと思っていたが、やはりマヤト人だ。


 とにかく止血をしなくては。だがゼールマンの包帯を裁つのに使ったはずの鋏が何故か見つからず、焦ったトゥエルは鞄をひっくり返して出てきたメスを掴む。それからうつぶせに伏せた少女に向きなおり、濡れそぼって身体に張り付いた服を切り裂きにかかった。


 継ぎはぎだらけのボロ布を剥ぎ取ると、その下から現れたふくらはぎは普通の人間の皮膚、そして赤く錆びた金属の皮膚だった。トゥエルは半ば驚きつつ、半ば怯えるような気持ちでその“自然のものではない”皮膚にひとさし指を触れてみる。やはり硬い。どうやって新陳代謝したり皮膚呼吸したりしているのだろう? 間接のあたりの伸縮は? 自分が習い覚えた医術は、果たしてこんな身体の人間に通じるものなのだろうか?


 カツーン。カツン、カラカラカラ……


 不意に足元からそんな音が聞こえ、トゥエルはあわてて視線を下ろす。地下室の石敷きの床の上を転がっていたのは小さな金属片だった。加工生命の少女の身体から落ちたと思しきその拉げたえんどう豆のような鉄色の物体――つまみあげて目の前に持ってきてみれば、トゥエルにはそれが何だかすぐにわかった。弾丸の摘出手術の補佐くらい、これまでに何度もしたことがあるのだ。


“すごい”少年の顔に一瞬、笑い出す手前のような表情が浮かぶ。“金属の皮膚が、防弾服みたいに銃弾を止めたんだ”


 が、そんな彼の表情はすぐに凍りつくことになる。


 服を裁つメスが進む先、一番出血がひどい右の膝裏のスカート部分には小指の先にも満たないような小さな穴が開いており、そしてその下にあるのは、金属ではなく……普通の皮膚でしかなかった。


“――……。貫通痕なし。盲管射創。膝の中心から上に2センチ半。左に1センチ弱。体内に残った弾丸の正確な位置はわからないけど、入射角からして膝の皿の骨の裏側にめりこむ感じで止まってるな。膝の軟骨や関節包は衝撃でズタズタだろう……”


 少年の心に絶望的な感情が広がっていく。止血は出来る。診察も出来る。が、彼の習い覚えた限り現代の医術では、彼女の右膝が完治することは一生ないということもわかる。それどころか、適切な処置をほどこさなければ膝から下が壊死する可能性も大きい。


 この場合の一番適切な処置。それは――


“膝から下の切除、か……”


 切断手術。この時代、それは決して珍しいものではなかった。銃創に限らず四肢が大きな怪我を負った場合、患部より末端の部位の血流が止まって壊死を起こすのはよくあることであり、そのまま放っておけば胴体まで死に至ることになってしまう。それを防ぐため、患部のすぐ上で切り落とすことは立派な医療行為なのだ――たとえその結果、患者が一生不具になるとしても。


「…………、」


 メスを持つ手が、震えた。


 もちろん切断処置には、こんな刃ではなくてそれ専用の片刃ノコギリを使う。麻酔で意識を奪い、拘束帯で手足の自由を奪い、まるで枝を剪定するように――あるいは家畜を解体するかのように、ごりごりと骨と肉を切断するのだ。レイケイ先生の手伝いで自分は何度もその場に立ち会ったことがある。切ったばかりの患部の皮膚を縫い合わせたり、血と脂でぎとぎとになったノコギリをいつでも使えるように手入れしておくのはトゥエルの大事な仕事のひとつだ。


 しかし……実際にノコギリを持って患者の四肢を切ったことは、まだなかった。 やり方はわかる。手順は目に焼きついている。だが大人の男でも苦労する重労働を、ひとりきりでやりおおせることが出来るだろうか? 非力な自分では、彼女をここまで担いでくることさえ難儀したというのに。


“やっぱり、先生を呼んでくるべきなんじゃないか?”


 トゥエルの脳内で、そんな弱気の虫が這いずりはじめる。習うのと出来るのとは別だ。無謀な挑戦をして失敗すれば、それは彼女を故意に殺めるのと何も変わらない。この時間なら、馴染みの居酒屋を何軒か訪ね回ればレイケイ先生を見つけることは出来るはずだと思う。だったらひとっ走り行って、土下座でもして彼女を助けてもらうべきではないのか。


“でも……”


 「覚えとけよ、トゥエル」――先生は、事あるごとにこう言っていたものだった――「俺たち医者は慈善家じゃない。商売人だ。怪我や病気を治したい、そのためなら金を払ってもいいという奴らがたくさんいるから生活が成り立つんだ。
 考えてみろ。腹を空かせた乞食どもひとりひとりにパン屋がパンを配っていったらどうなると思う? 次の日には、そのパン屋が乞食をすることになるんだ。街警団の連中だって市民や治安を守りたいから活動してるわけじゃない。そのほうが都合がいい連中から金をもらってそうしているだけだ。同情心とかしがらみとか体面とか、そんなものじゃ腹は膨れないんだよ。
 お前もこれから勉強していけば、怪我や病気を治す技術は身についていくだろう。そしてそうなれば必ず、お前が手を尽くせば助けられる無一文のやつに出くわすことになるだろう。だがそんなときは絶対に、金もない奴を助けるような真似はするんじゃないぞ。わかったか?」


“――つまり、今がそのときってことなのか”


 あらためて懐を漁ったりするまでもなく、この加工生命の少女が無一文であることは明々白々だった。薄汚れた格好はもとより、足には靴すら履いてないのだ。ならば、たとえ土下座したってレイケイ先生が代わりに彼女を助けてくれることはない。それどころか、自分が彼女を連れ込んだことだって不愉快に思うだろう。 トゥエル・ジャックはレイケイ・シャーダーの徒弟である。この地下室も診療所も医療用具も先生の持ち物であり、トゥエルはそこに間借りさせてもらっているにすぎない。何より、先生は彼にとって大恩人なのだ。自分のちっぽけな感情を優先して彼の教えに背くようなことは、本来あってはならないことなのだ。


“駄目だ――やっぱり、僕ひとりで何とかしないと”


 本当に出来るだろうか? 彼はメスの刃に映るもう一人の自分へそう問いかける。ただでさえ大手術なうえ、彼女の場合は通常の患者ではない。金属の皮膚のせいで止血帯を巻くのも苦労したのだ。切断する箇所は患部よりもだいぶ上になってしまうだろう。それにこんなおかしな身体に、麻酔はちゃんと効くだろうか? 雑菌は大丈夫だろうか? 不安なことはいくらでもあるが、しかしこのまま何も手を施さなければ確実に彼女は死ぬのだ。脚じゃなくても、盲腸なら切ったことがある。お腹に刃を入れることに比べれば、きっと危険は少ないはずだ。


 できる。


 やれる。


 成功すれば、少なくとも彼女の命は助かるだろう……


“……本当に?”


 確かに、一時的には助けることが出来るかもしれない。だがそこから先は? 加工生命で、流民で、そのうえはそくで――そんな彼女にこの先いったい、どんな人生が待っているというのか? 彼女はこの先、どれだけ生きながらえるというのだろうか?


“そんなこと、おまえぼくに関係あるのか?”鏡のように磨かれたメスの刃先に映るもう一人の自分が、唐突に口をきいた。“誰にやられたかは知らないけどさ。あんなに血みどろになるまでボコられたのは、彼女がマヌケだったからでしょう? どうしようもないよ。そんなのおまえぼくの責任じゃないよ。おまえぼくに出来ることはせいぜいふたつ――何もなかったことにして野良猫みたいに棄ててくるか、無茶な手術の実験台にしてぶち殺すかのどっちかだ――……それともひょっとして、レイケイ先生に破門される前提でって覚悟がおまえぼくにあるっていうのか? ないだろ――な、だったらオススメは一番だ。明日も朝から仕事なんだ。余計な苦労は背負い込まないに限る。それともいっそ、バッサリやっちまうか? 大丈夫、相手は流民の加工生命だ。失敗したところで何の罪にもなりゃしないよ。ほら、前からやってみたかったんだろ? 習ったとおり麻酔で眠らせて、油を引いたノコギリでぎーこぎーこってさ……”


 冷たい汗が背筋を伝い落ちていく。


 レイケイ先生の手術用の片刃ノコギリ、それは探すまでもなくこの寝室兼物置である地下室の、入り口右手側ひとつ目の戸棚の下から二段目に箱に入れて置いてある。つい先週も荷崩れで骨ごとぐしゃぐしゃになった水夫の右腕を切断するのに使ったばかりだ。けれどこのときのトゥエルには何故か、いつも己が手入れをしているそれが、毎晩同じ部屋で過ごしているはずのそれが、これまでに何十本となく患者の手を足を切断してきたそのノコギリが何故かまるで、物語に出てくる呪われた武器のようなに感じられて仕方なかった。


「……ッ、タ…………」


 加工生命の少女が、不意にそう呟いた。

 

 少年は弾かれたように刃物から目を離した。うつぶせに寝かしつけていた少女は頭の右半分を枕に沈め、左目だけでこちらを睨んでいる……いや、焦点のあっていないその黒い瞳はこちらを見ているかどうか以前にはっきりした意識が戻っているかすらも疑わしい。しかし今のトゥエルには、彼女のその視線は、まるでこれから自分がしようとしていることを咎めているものであるかのように感じられた。


「くそっ……!」


 トゥエルは白い布きれを少女の鼻と口に押し付ける。一秒、二秒、三秒……四秒後に少女の両腕と左足が痙攣して、それきりぴくりとも動かなくなった。布切れに染み込ませたアゼルバゼアキシンという薬物は調合が難しく効果も数分しか持たないものの、非常に即効性の高い痺れ薬である。まずこれを使って、彼女の万一の抵抗による事故を防ぐ。それから棚から持ち出した平底のフラスコ瓶と管とマスクはエーテル麻酔の吸入器だ。こちらは薬が回りきるまで十分程度かかるがそのぶん持続時間が長く、麻酔が効いているあいだは患者の意識と痛覚は完全に眠りにつくことになる。


 止血、消毒、湯の用意、清潔な布の用意、血液型の確認、その他の外傷の確認……エーテルを吸わせているあいだの十分かそこらは、それこそあっという間に経過していった。そして、他の準備を終えたトゥエルは最後の手術道具を取り出す。それはこの寝室兼物置である地下室の、入り口右手側ひとつ目の戸棚の下から二段目の箱の中から――……ではなく、ベットのすぐ上の壁の隠し棚からであり、それは油の引かれた片刃ノコギリなどではなく、彼の二の腕ほどの長さの黒いガラス状の針だった。

「“黒水晶モリオンの針”」

 誰に聞かせるでもなく、少年はその道具の名を呟いた。


 少女の足を治療するため、これからこの針を使用する。といっても糸を通すための穴もないわけだから縫合には使えないし、マヤト人の鍼治療とやらで使うのは髪の毛くらい細い鋼線であって、とは何の関係もない。


“黒水晶の針”の長さはおよそ30センチ程度。涙滴型を非常に細長くしたような形状をしており、黒いガラスのような材質は向こう側のひかりがうっすらと透け見えるくらいの透明度がある。


 この道具の正体については、残念ながらトゥエルも知らないことのほうが多かった。本当に黒水晶を素材に使っているかも不明だし、そもそも“黒水晶モリオンの針”という呼称は後世になってつけられたものであって、本当の呼び名は誰も知らない。それを知っている者たち――この針を造った者たちは、遥か昔に死に絶えてしまっているのだから。 たとえ市民学校で教えることがなかろうが、過去この世界には高度な文明が存在していたことは多くの者が知っている。ゾンビよりも腐れきった権威主義の教会でさえそれを否定はしていない。建設現場の基礎工事の際に遺跡が発見されたりするのはしょっちゅうだし、さきほどゼールマンのあげつらねた英雄譚のいくつかにはその古の時代が舞台になっているものすらある。そうした物語に出てくる魔法の剣――たとえばウェルヘングリンの“エト”だとか、狂王カルグの“おののき丸”だとかと違って、この"針"は呼び名こそ残っていないものの、現品が(あるいはその製法が)残っているというわけだ。


 ――一方で、それらの魔剣とこの“針”には共通点する部分もある。


 ――それは、どちらも常識では考えられない能力を持つ品であるということだ。


 麻酔が回ってぐったりとした加工生命の少女の膝の裏側、赤黒い小さな穴の開いている患部のすぐ近くに、トゥエルは垂直に立てた“黒水晶の針”をゆっくりと降ろしていく。針の先端は生身の皮膚に触れると、まるで水の中に落ちるように抵抗なく彼女の肉の内側に滑り込んでいった。信じられないことに、進入箇所からは血の一滴もこぼれない。なぜなら“針”は、皮膚を破っているわけでも、肉をえぐっているわけでもないからだ。


 トゥエルはすでに手を離している。しかし“針”はちょうど半分まで埋まったところで、ぴたりと静止する。そして数秒後、黒一色だった根元のほうからまるで血液が流れ込んだような赤いマーブル模様に変化しはじめ、それは“針”の逆端のほうまで広がっていく。表面も内部も絵の具を混ぜた液体のように刻一刻と色が変化しているものの、材質としては固体であることには変わりがないようだった。


 針の色が変わりきったのを見届けたトゥエルは、左手の手袋を口で咥えて抜き取る。


 それから、彼は、露になった手のひらに、“針”の逆端を突き刺した。

 




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                  世界がゆがんだ。
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 トゥエル・ジャックの意識には、いまや世界はふたつ存在した。ひとつは五感の捉える地下室の様子。これは普段のものと変わらない。そしてもうひとつは、左のてのひらに刺した“針”を通じて伝わる加工生命の少女の右膝とその周辺の情報だ。それは見るのとも聞くのとも嗅ぐのとも触れるのとも違う、まるで頭蓋骨の内側に新しい世界が生まれたような感覚だった。


 通常の五感では、たとえば本を開かなければ中に書かれた文字を読むことは出来ないし、匂いを嗅いだり食べたりしなければ料理の味を知ることも出来ない。しかし今のトゥエルには、“針”を打ち込んだ箇所からおよそ半径138、72ミリの球形の空間におけるすべての状況を完璧に把握することが出来た。それらは途方もなく膨大な情報であるのと同時、まるで白い点と黒い点を羅列したような単純な記号の塊でもあった。点はそれのみでは何の意味も持たないが、その配列パターンを把握し統合することによって、通常であれば切開したり顕微鏡で解析しなくてはわからないような部分の情報すらも読み取ることが出来るのだ。


 繰り返すが、少年はこれまで加工生命の患者など診たことはない。皮膚だけでなく骨まで金属だったり、関節の代わりに歯車でも入っていたらどうしようとさっきまでかなり真剣に悩んでいたところだ。しかし“針”を介した知覚によれば、彼女の膝周りの構造は普通の人間のそれと何ら違いないようだった。


 もちろん、今は普通の状態であるとは言えないのだが。


 銃撃によって穿たれた皮膚の下――潰れた筋肉、断たれた血管、破壊された関節、弾丸はやはり体内に残っており、大腿骨の末端を粉砕し膝蓋骨に食い込んで止まっている。いってみれば膝の皿を内側からハンマーで叩き割られたような状態になっていた。

 

 内部の状態はわかった。問題はここからだ。

 

 少年は頭の中で、レイケイ先生からの授業をおさらいする。

 

「自然治癒力の役割と重要性はこのあいだ教えたな、トゥエル」――患者たちのいなくなった就業後の手術室で、師はこう言っていたものだった――「すべての人間にとって主治医とは、自分自身の治癒力そのものだと言っていいだろう。俺たちの仕事の八割はそのサポートに過ぎん。残りの二割は、たとえば使い物にならなくなった四肢の切除だとか、悪性腫瘍の摘出だとか、自然治癒力の限度を超えた怪我や病への処置だ。これらは大抵の場合、患者の生命活動を守るために代償として重要器官以外の部位に傷をつけることになる。裂傷を縫い合わせるときには周囲の皮膚に針を通さなくてはならんし、毒に冒された患部を切り取るためには、健康な肉や骨をも一緒に取り除かなくてはならんわけだからな。
 ……一方で。
 この“針”には、刺した生体をする能力がある。目に見えない体内の状態を知れるというだけでも俺たちには計り知れない価値を持つが、やろうと思えば骨を飴みたいに曲げることが出来るし、動脈と静脈を入れ替えて繋ぐことも出来る。しかし人体を壊すだけならそのへんの薪棒でじゅうぶんだ。俺たちの仕事はそこらのチンピラの喧嘩とは違う。
 トゥエル。もしお前が、正しい知識と経験を身に着けてこれを使えば。そのときお前は、患者の健康な部位を傷つけることなく重篤な怪我や病を元に戻すことが出来るだろう。いや、正確にはと言ったほうがいいか。縫ったり張ったりするわけじゃなく、折れた剣を修復するためにわざわざ鋳溶かして鍛えなおすようなものだからな。
 だがそのためには、人体の内部構造を完全に把握しておく必要がある。それらを学ぶためには、口頭や教本テキストによる勉強ではまるで足りない。だからこうして……死体を切り開く」――

“はい、先生”

 ――「この男は年端も行かない少年少女を強姦し、娼婦を3人も殺した死刑囚だ。だが聖人であれ悪人であれ、人間の身体の構造というものは9割8分まで変わらない。こいつの死から覚えろ、トゥエル。どの臓器がどうしてそこにあるのかを。骨格と筋肉と関節の連動を。血管と神経による樹葉図を。一切余すところなく、すべてをお前の脳裏に刻み込め。生前にこいつが奪った以上の命を、お前がこれから活かしてゆくために」――


 指揮触覚準備。


 右の一。二。三。四。五。確認良し。続いて左の一。二。三。四。五。確認良し。


 少年は左の手のひらに刺した“黒水晶の針”を介在し、加工生命の少女の体内に十の触覚を展開した。


“針”を打ち込んだ箇所からおよそ半径138、72ミリの球形の空間は、今のトゥエルには単純な記号を膨大に組み合わせた配列のかたまりとして認識されている。鏃型をした触覚は体内に溶け込んだ“針”と同じように患者の身体を傷つけることなく操ることが出来、そしてこの触覚によって記号の配列を組み替えることにより、少女の体内の状態も変化していくのだ。


 まずは膝蓋骨の裏に食い込んでいる一センチ弱の弾丸を、20×20の断片へと分解する。そうしてコーヒー豆の粉末のようになった鉛の粒ひとつひとつを操り、弾の通り抜けた入射創をさかのぼって体外へ搬出。通常であれば周辺の肉を切り刻まなくては不可能な弾丸摘出が、メスを手にすることすらなく進んでいく……


 つう、と汗が頬からあごへと滴るのを感じ、トゥエルは現実世界の右手でそれをぬぐった。暖炉に火を入れたために地下室の温度は上がりつつある。が、頬や額を伝う彼の汗はひどく冷たい。ほんの二十分程度の摘出作業だけで、まるで何キロも全力疾走したかのように消耗していた。無理もない――生きている人間に“針”を使うのはこれが初めてなうえ、もし少しでも配列を間違えたなら、彼女の身体にどんな変化が起きるかわからないのだ。


 何より今は、レイケイ先生がいない。


『小さな先生』などと呼ばれていい気になる一方で、施術に失敗しそうになっても師が助けてくれるという安心感にこれまでどれだけ甘えていたのか――トゥエルはいま、それをまざまざと感じていた。


 “けれど、こんなのは遅かれ早かれ越えなくちゃいけない壁なんだ”彼は自分を奮い立たせる。“いま、彼女を助けられる可能性があるのは僕だけだ。僕がやらなきゃいけないんだ”


 骨に走った罅を塞ぎ、肉と肉を埋め、閉じ合わせた関節内を潤滑液で満たし、寸断された血管を繋ぎ合わせる。3号キャンパスに点描のみで絵を描くような膨大で繊細で難しい作業を少年は慎重に迅速に根気よくこなしていく。


“壊すことは易しく、直すことはその何十倍も難しい”


 毛細血管の一本一本まで知悉するほど研ぎ澄まされた意識の片隅で、トゥエルはそんな師の言葉を思い出す。まったく本当にその通りだ。彼女を痛めつけた何者かは軽く引き金を引くだけでこれだけの破壊を巻き起こしたというのに、それを修繕しようとする自分は比較にならない労苦を払って“黒水晶の針”を扱っているのだ。


 拳銃だけではない。少年は武器というものに身震いするほどの恐ろしさと嫌悪を感じる。剣に槍に弓に棍。人体を効率よく破壊するために突き詰められた道具の数々。市井にはそんな道具の扱い方を教える場所がいくつもあって、あまつさえ、腕比べなどといってその扱い方の上手さを競いたがる連中まで存在するらしい。そんなもの、トゥエル・ジャックには到底理解できるものではない。


 彼らは知らないのだ。


 傷ついた人体を直すことがどれだけ難しいかを。


 そして、鉄の骨組みの傘とさほど変わらない値段で手に入る人殺しの道具に対し、この“黒水晶の針”は――徒弟の身分などでは死ぬまで働いても購えないほど、貴重な品であるということを。


 

(第9回につづく → http://p.booklog.jp/book/101633/read


この本の内容は以上です。


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