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Scene1      ――クライブ・ヨレン

 

※第0回(プロローグ)はこちらから

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    1

 

 

 昼のあいだ大時化だった海原は、太陽が沈むとともにぱたりと穏やかになった。

 

 投錨したレイセニス号は帆をたたみ、嵐で疲れた身体を休めるように細波に揺られていた。大小ふたつのマストを持つ小型帆船は最新式の蒸気船にこそ劣るものの、足の速い、バランスの取れたカラベルで、船首には海獣の頭部を模した衝角ラムの飾りが取り付けられていた。そして大楢オークの船体のそこかしこに刻まれた紋章は、歯をむき出しにした青い獅子だった。


 サンクタリス軍の青い牙サファイアファング――それと同じものが、乗客の若い男の纏う軍服にも縫い付けられていた。彼は船首付近の甲板で車座になって酒を酌み交わしている船員たちから少し離れたところに、特に何をするでもなく、ひとり立っていた。ただその軍靴の両足が、時折綱渡りをするように甲板を前後している。


“時化でなくても、足場は常に揺れている”


 青年の右腕がゆっくりと動き、肩と同じ高さに持ち上げられて止まった。革の手袋の指先はまるで見えない何かを握るように拳を作っている。その姿勢で、彼はそっと目を閉じた。


“踏み込みの瞬間に大波が側舷を叩いたりでもしたら、バランスを崩すか、最悪転ぶか、どちらにしても致命的な隙が出来るだろう。かといって肝心の足捌きをおろそかにしたのなら、刃先に体重を乗せることも、敵の懐に潜りこむことも叶わない”


 武器の類は乗船するとき、船長へ預ける決まりだった。「俺の船はいつだって安全だ」使いこんだデッキブラシのような髭を生やしたその中年男は青年とその同行者が欄干を跨いだとき、凄むような笑顔を向けてそう言った。「だから護身用の刃物など、ここではぜんぜん必要じゃない。もっとも、あんたのそれが嵐や暗礁から船を守れる魔法の剣だというなら話は別だがな」


 名目上、レイセニス号はたしかに政府管轄下の国境警備船だった。船長含め柄の悪い乗組員連中はむしろ政府管轄下の私掠船ではないのかと思わせるような風体をしていたが、たとえそうだったとしても、バックに国軍のいる自分や、どう見ても金に縁のなさそうな連れを武装解除してまで襲うなどしないだろう。得られるものが少なすぎる。


 そう考え、クライブ・ヨレンは腰帯に差していた支給品のサーベルを樽の中に入れた。彼の連れも、私物の古びた鞘ごしらえの短剣を同様に。


 摺り足で体重を移動させつつ、青年はからの右拳を前方へと突き出す。揺れる足場での訓練はしたことがない。実物の剣がなくても、その機会は捨て置くべきではない。


 錆びた蝶番の軋む音に振り返ると、階段の下の通用扉からひとりの男が出てくるのが見えた。色褪せた羊毛織りの上着の背中は小柄ながら厚みがあり、いかにも丈夫そうだったが、しかしその足取りは妙におぼつかずふらついている。表情はクライブの側からは見えないが、昼間に船室でベッドに臥せっていたときは、顔に刻まれた皺を一層深くして船酔いと格闘していた。千鳥足ながらもああして立って歩いているところを見ると、どうやら多少は回復したらしい。


「やぁ、良い夜じゃないか」


 男は青年の視線に気付くことなく甲板の中ほどまで進み、酒盛りをしていた船員たちにそう声をかけた。


「おっさん、もういいのかい? さっきまで、嵐にも負けないほどの音量でいたが」下っ端の水夫が皮肉の混じった笑いを向けた。男も笑った。


「ああ。有難いことに、胃袋まで吐き出してしまうより先に収まってくれたようだ」


「そうか。ワインでも飲むかい?」


「普段なら遠慮などしないのだが、しばらくのはこりごりだな。それより、そのうまそうなつまみをもらえるか?」


 男は返事を待つより先に手を伸ばし、鰯の一夜干しに頭から齧りついた。よほど腹が減っていたらしく、大量の水で流し込むように三匹を平らげ、あっけに取られる船員たちを尻目に四匹目を咀嚼しながら、まだふらつく足取りで欄干近くに移動する。


 妙な空気に誰も口を閉ざして、彼のがっしりとした背に視線を送っていた。


 そして振り返り、男は言った。


「なあ――ションベンをしてもいいか?」


 船員たちは止めればいいのか、認めればいいのか、それとも笑えばいいのかをお互いに訊ねあうように目配せしあった。


 海に生きる彼らにとっては別に日常茶飯事なこと、むしろ船室の便所の穴に向けてした回数より、海に直接流した回数のほうが多いはずだった。止める理由などなかった。それでも、客人であるその初老の男がそれをと言うのは、どこか違和感があった。


 結局、船長が口を開いた。「……好きにしな」彼は噛みタバコをくちゃくちゃさせながら、いかにも面倒くさげな視線を男に向けた。「ただし、俺の船にを跳ね飛ばさんこと。出したものを追って海に落ちんこと。夜の海へわざわざ飛び込んで、下半身剥き出しのオヤジを助けるのなんざ御免だからな」


「いやあ。いっぺんやってみたかったんだ」


 男は破顔し、いそいそと一物を取り出した。白の混じった毛がぬるい潮風にそよいだ。そしてそのまま、船の後方へとガニ股で歩いていく。


「おい、どこいくんだ」船員の一人が慌てて尋ねた。


 男はさも大事なことのように、こう答えた。


「こっちからじゃないと、月を眺めながら出来ないだろう?」

 

 昼とうって変わって澄んだ夜空、銀色の盆のように欠けの無い見事な満月が、この一幕を遠巻きに見ていた青年のちょうど左手側に昇っていた。


 男はをぶらつかせたまま後舷の階段を上がって、そこでやっとクライブに気付き、彼に向けてニカッと白い歯を覗かせた。若い軍人はどう答えればいいかわからず、ただ黙って男が欄干の上に立つのを見守るしかなかった。


“――ランカニス。アークメイジ・ランカニス”


 クライブは心の中で再確認するように、同行者であるその男の名を呟いた。


 魔術士メイジ


 文明と相反する、目に見えない力を持った者たち。秘匿主義で、傲慢で、貧弱な者たち。 彼の中で“魔法使い”といえば、大昔に読んだ『勇者ウェルヘングリン物語』だとか『ロージャ島の大冒険』だとか『ハーヴィ・モンスリンと4人の王様』だとかの登場人物がまず思い浮かぶ。よぼよぼに年老いて、白い絹のような長い髭を蓄え、呪文書と樫の杖を手にモゴモゴ呪文を唱えて、実際には起こるはずもない“魔法”を使うのだ。


 ランカニスは確かに年齢的には初老に達しており、短く刈った髪は耳の上まで後退して白く染まっている。しかし、クライブより頭ひとつほど低いながらもその背筋は老いなど微塵も感じさせないくらい真っ直ぐだったし、筋肉質の体つきから生まれる挙作はまったく矍鑠としたものだった。顎髭は輪郭のラインに合わせてきれいに整えられており、ついでに言うなら、杖や呪文書の代わりに携えられているのは神秘性などまるでない、ただの厚刃の短剣でしかなかった。


 ――『アークメイジ・ランカニスを護衛せよ。そして監察せよ』――


 そんな辞令がクライブ・ヨレン准尉へと発せられたのは、今から八五時間前のことである。


 少将銀印シルバーベインの箔が押された正規指令書から大真面目な顔で“魔術士”という単語を引き出したハリス・ノットル国軍警察MP中佐に対し、クライブはとりあえずの鉄面皮を保ってみせた。兵卒たちの間ではミリタリーポリスの適正試験について、まことしやかにこんな噂が流れている――“知ってるか? 憲兵のタマゴどもは、ケリーマン・ハウスの仮面劇を三日ぶっ続けで見通しても笑っちゃいけないんだってさ”。


「魔術士ですか」クライブが言った。


「そうだ、魔術師だ」ハリス中佐が頷いた。


「……寡聞ながら、自分は魔術士なる職業・称号を有す者を存じません。教本や訓練でも、そのような者に対しての行動原則はなかったと記憶しておりますが」


「だろうな」ハリスはまたも頷く。見れば彼のいつもの渋面が、さらに苦虫を噛み潰したような顔色になっている。「同じ質問を、私も本部長大佐にしてきたところだ。答えはこうだ――“普段どおりにやれ”」


「…………」


 国軍警察本部長ドノは確か、家柄と政治力とで今の地位を買ったような人間だった。純正の憲兵とはとても言い難い。冷飯食らいの『エックス班』への指令など、歯糞を飛ばすのとさして変わらない感覚で放り出したのだろう。それを飛ばされる側としては、たまったものではないのだが。


“……?”


 クライブはそこでようやく、課長室に自分とハリスの二人だけしかいないことに気付き、「もしかして……単独警護マンツーマンですか?」と上司に問うた。


「そうだ。……事情は判るな?」


 胡散臭い任務だろうと、汚れ仕事だろうと、軍服を纏う身である以上すべて受け入れるしかない。クライブは胸を張り、真っ直ぐに敬礼を返した。


 ハリス中佐はゆっくり頷き、言った。「明朝、対象者と合流後、馬車でタンニガム港へ向かえ。そこから目的地までは、国境警備隊の連絡船に便乗させてもらう手筈になっている」


「目的地……どちらで?」


「旧マルセア公国領。シティ・アーヴィタリスだ」

 



 そして、それから、八五時間後――


 魔術士が高らかに描く黄金のアーチを、船乗りたちも、青年もただ黙って見守っていた。


 ああしている限り、彼は普通の(やや下品な)初老の男にしか思えない。魔法などという、物語でしかお目にかかったことのない“タネのない手品”を使えるような人間には決して見えない。


“だが、しかし……”


 クライブ・ヨレンは胸中で首を捻る。彼は魔法使いには見えない。けれども、ならば一体、彼は? 軍人というには年寄りすぎる。傭兵というには軽装すぎる。学者というには体格が良すぎる。神職という可能性は――まあ、考えるまでもあるまい。とにかく、青年がこれまで面識を持ったどのような人物像とも掛け離れていることは確かだ。

 

「気は済みましたか?」


 欄干から身軽に飛び降り、自分の目の前に着地した男へクライブは話しかけた。


「ああ、とてもすっきりした。冬の朝の夢精のように気持ちが良かった。空に浮かんだ銀月が、まるで微笑む女神の横顔のように見えたよ。どうにかやろうと思ったが、年だな、結局届かずじまいだった。――おお、そうだ。君も挑戦してみたらどうだ、クライブ?」


「遠慮しておきます」


「そうか、そうか」


 にべもない青年の拒絶、しかしランカニスは特段気を悪くすることなく頷くと、名残惜しそうにズボンを引き上げた。


「嵐を鎮めろ、とまでは言いませんが」クライブは男が腰の紐を結び終えるまで待って尋ねた。「魔法使いだというなら、ご自分の酔いを醒ますくらいは出来ないんですか?」


 ランカニスは目をぱちりとさせて言った。「君は魔術士を何だと思ってるんだ?」


「わからないから訊いているんです」


 外部協力員として、軍が学者や地方の有力者を一時的に傘下におさめることは珍しくない。彼の所属する連邦陸軍憲兵科一○×ヒトマルバツ連隊、通称『エックス班』の任務はそうした部外者への監察・監督だ。……がしかし、クライブの記憶にある限り、魔術士などという胡散臭い人間がX班の任務対象となった試しはなかった。


「それになんですか、貴方の派遣理由――調って。アーヴィタリスの小麦の値段や、市場に出回る魚の量でも調べるんですか? そんなこと、学者か商人か……いや、手透きの学生たちにでもやらせればいい。魔法使いだなんて、得体の知れない人種の出る幕じゃありません」


 ランカニスの太い眉毛が額の真ん中へと寄せられた。「クライブ。おれは魔法使いではない、魔術士だ」


「だから、魔術士とは一体なんなのか、と伺ったのです」


「そうだな――」男の渋面がいきなり崩れた。悪戯小僧のようにニカリと笑って、アークメイジ・ランカニスはこう言った。「ま、俺と一緒にいれば、そのうちわかる」

 



 到着は夜明け近くになるだろう、という船長の見立ては正確だった。


 仮眠を終え、狭い船室から這い出たクライブ・ヨレンは東の空に、濃紺から薄紅へと移り変わっていく闇の見事な階調を見た。そしてその一番下のところ、暗い波のずっと先が真っ直ぐな水平線ではなく、ぎざぎざの山脈を広げた稜線になっていることに気づいた。


「あと一時間、てところだな」船長はクライブと同じ方向を眺めながら呟いた。彼は甲板の上にチェアを持ち出し、我が物顔で(実際、彼のものなのだが)足を組んでいた。「もうちょっとしたら下で寝ているあの親父オヤジも起こして、降りる準備をしてくれや。しかし、あいつは鼾もうるさいな。船板を通して、ケツがビリビリしやがるぜ」


「世話になりました、キャプテン・ジョン」


 律儀に頭を下げる青年に、船長はフンと鼻息で返事をする。それから、彼は視線と顎先で、舳先の向いている方角を指し示した。


「見えるか?」


 そう問われ、クライブゆるゆると明るさを増してゆく曙光の中に眼を凝らす。彼らを運ぶ船の行く先、遥か彼方の陸地の影の一部に、山脈のものとは違う複雑で不自然な地形が見えた。それは鍵の先端をいくつも集めたようにごちゃついており、そして、そこにかかるのようなものは朝霧にしてはやや濃すぎて、薄くたなびいて上空に掛かる雲と合流していた。


「……火事、ですか?」


「水兵には向いてないみてェだな、准尉サンよ」船長は唾を飛ばして笑う。それから少し真面目な顔つきになり、「あれは、蒸気だ。工場のタービンを回したり、船の動力にしてる機関から出る、石炭を燃やして水をあっためただよ」と言った。


「工場――」繰り返す青年の声が上擦った。「って、まだ太陽も顔を出していないですよ。そんな時間から稼動してるんですか?」


「そういう街なんだよ、あそこはな。――眠らないのさ」


 クライブは欄干を掴んだまま眼を細めた。


 陽の出とともに目覚め、陽が沈むとともに眠る。王侯貴族は別として、ランプや蝋燭を一晩中つけっ放しにしておける平民などまずいない。それは都市でも農村でも変わらない。酒場や娼館、盛り場であっても、日付の変わるころには静かになる。歩哨や燈火守りを別とすれば、市井の者が夜通し起きていることなどまずないはずだった。


“ヌーヴォ・シティ”アーヴィタリス。――大陸ほぼ南端、旧マルセア公国領。


 その規模、その重要度に比して、アーヴィタリスという名前が歴史に登場するようになったのはごく最近のことだ。士官学校での講義を信じるなら、あの大都市は、ほんの二百年ほど前まではどこにでもある小漁村に過ぎなかったらしい。それが今では、国内の五割の布地を紡績し、七割の鉄鋼を鍛造するとまでいわれる、大陸最大の産業都市へと変貌を遂げてしまったのである。人口も裕福さも、あっという間に追い抜かれた地方貴族や城塞主たちは、その繁栄を揶揄してこう呼んだ――“成り上がり都市ヌーヴォ・シティ”と。


“いったいどうしたら、単なる漁村がああまで大きくなるんだろうか?”


 ようやく肉眼で拝めた赴任地へと思いを馳せつつ、クライブは幕が開くように夜影の払われていく前方の景色を眺め続ける。


 彼自身は田舎の寒村出身だ。士官学校のあったカルナットは由緒と格式こそ事欠かない街だったが、規模としてはアーヴィタリスの十分の一にも満たなかった。その後、国軍警察に入隊してからの三年は首都で偉い肩書きの神官サマの警護だとか、従軍する地理学者に帯同しての辺境行脚だとかで瞬く間に過ぎた。持ち前の生真面目さでそれらの仕事は遺漏なくこなしてきたものの、その一方で、変わり映えしない日々に心のどこかで退屈を感じていたのも否定できない事実だった。


 任務が最優先であることを自覚しながら、ここに至るまでのクライブの心情は確かに、噂の“成り上がり都市”へと興味を掻き立てられていた。


 しかし――


 船足が進むとともに、朝日が昇るとともにぐんぐんと詳らかになっていくその街の眺望は、彼の純粋な好奇心を、何か異様な気持ちに塗り潰すようなものだった。


 澱んだ海。


 濁った空。


 彼らを迎えた港の入り口は、美しいとは決して言いがたかった。同じ沿岸都市だとしても、“古都”マレタ、“雨と虹の”ソルレイヌのような明媚さは、そこには見出すべくもなかった。


 いや、それどころか――


 湾口に犇く、灰色一色の巨大な工場の群れ。錆びた配管からは留まることなく汚水が垂れ流されている。轟音を上げ、側弦が擦れるような距離で行きかう無数の船。大型の外洋船がほとんどで、漁猟用の帆船は少ないようだ。まるで蛇腹の芋虫から脚を何本も伸ばしたような不自然な海岸線は、きっと強引に埋め立てられたものなのだろう。


 “汚い街だ”


 それがクライブの率直な感想だった。むろん、今見ている港が主たる市街地でないことは理解している。しかし、そのときの彼には、そこがまるで人間の住むところではないように思えて仕方なかった。


「おぉ――、おぉぉふぁよう、クライブ」


「……ぁ、」


 もしかしたら、自分で想像する以上に落胆していたのかも知れない。振り返る視線の先、寝ぼけ眼で大あくびするランカニスの暢気な顔には、思いがけずほっとさせられてしまった。


「――む。どうやら朝飯は、久々に陸の上で食べられるようだな」


 魔術士の男は舳先の光景を見、クライブとは全く別の感想を漏らして笑った。


「おはようございます、ランカニス。久々といっても、ほんの二日と半分くらいのことじゃないですか」


「いやいや。どうもおれには、このぐらぐらする木箱は性に合わないようだ。帰途は陸路にしてもらえると嬉しい。それと、別にこの船のまかないに文句をつけるつもりはないが、あの街には美味い飯を食わせてくれる知り合いがいてね」


「知り合い――では、以前にもアーヴィタリスに逗留したことが?」

 

「まあ、ほんの百年ほど前にな」


「…………」


 クライブは笑うこともなく、相槌を打つこともなく、ただ黙って男の顔をじっと見詰めた。三羽のウミネコが甲高く鳴きながら彼らの頭上を飛んでいった。


「……冗談だ」ランカニスは気が抜けたようなため息をついた。それから仕方なさそうに、「あのなあ、クライブ。お前もう少し、ユーモアだとか、スラングだとかを勉強したほうがいいぞ。お前自身はどうかは知らんが、喋ってるこっちのほうが肩が凝る」


「――善処します」


 青年は表情を変えることなく頷いた。


 同様の指摘は、過去に何度も受けている。級友から、教官から、食堂で相席した女性から。己でも、加齢とともに融通の利かない性格になりつつあるという自覚がないわけではない。子供の時分にはそうでもなかったのだが、しかし物知らずだった幼い頃に戻りたいなどとは露ほども思わず、結局、今に至るまでに、クライブが学習できたのはこんな当たり障りのない返し文句だけだった――すなわち、“善処します”と。


 ランカニスは眠たげに目蓋をこすり、顎が外れるような馬鹿でかい欠伸をひとつ漏らした。それから、「人生の荒波は、教本という指針だけじゃあ乗り越えていけないぞ」――まるで青年の韜晦を見越したように、その老魔術士は呟いた。「駄洒落も諧謔も、大事なのは思考の瞬発力だ。普段からそれを磨いておかねば、いざ思いがけない事態が起きたとき、最良の選択肢が頭に浮かばんことだって有り得る。そうだ。簡単なところからやってみろ。面白いと思ったら笑う。誰かが言った面白いことを記憶しておいて、そのうち真似して使ってみる。――別に難しいことではないだろう? なにも道化になれと言っているわけじゃないんだ」


「…………」


 クライブはお定まりの返し文句を使うことも出来ず、意気を呑まれたようにランカニスの眼をまた凝視した。出逢ってからこの方、あの無精髭に包まれた口元が下品な冗談以外の言葉を吐き出すのをはじめて聞いた。それは意外であり、驚きでもあった。


“なるほど、『思いがけない事態』とはこういうものか”


 照れ隠しなのか、ランカニスは明後日の方角を向いて肩を曲げ、背を伸ばし、柔軟体操のようなことをやりはじめた。「ああ、嫌だ嫌だ。お節介なことを言うと、自分がジジイになった気がしてならんわい」


 その背に向け、自分は気の利いた言葉のひとつでも投げかけてやるべきなのだろう――本来ならば。それくらいのことは、わかる。だがクライブは、三十秒経ってもその“気の利いた言葉”とやらを思いつくことが出来ず、結局こう促がすので精一杯だった。


「そろそろ着港します、アークメイジ・ランカニス。準備を」


 それでも、ランカニスはもう気にした様子はなかった。彼は屈伸運動を止め、「うむ、わかった」などと返事をしながら、するりと腰帯を解いた。


 履き古した脚袢が膝までずり落ちた。


 白の混じった毛が朝の涼風にそよいだ。


「……真似はしませんよ」


 呆れた気持ちのみを言葉に乗せ、クライブは残念なほど引き締まった老魔術士の尻に向けて呟く。背後では船員たちが「またやってるぜ」と笑いあっている。


 ランカニスは振り返って首をかしげた。「――準備をしろと言っただろう?」


「とっとと済ませてください」


 ズボンを下ろしたまま、彼は昨夜と同じように、ただし今度は太陽を臨む舳先側の欄干に飛び乗った。どうやらまた、天体に向けて放尿する快感とやらを味わいたいらしい。


 “やれやれ。こんな人と、これからあの街でやっていかなきゃいけないのか”


 クライブは暗澹としながら視線を逸らした。もういい。自分も荷造りをしよう。到着したらまず首都に電信を打って、それから腹ごしらえだ。飯屋か何か知らないが、ランカニスに当てがあるというのならそこでいい。――とにかく今は、その朝食のときまでに、“下半身剥き出しで欄干に立つ初老の男”という不快な光景が、目蓋の裏から消えてくれることを祈るばかりだ――


「……、……?」


 そのとき、何かが彼の脳裏を掠めた。指先の痒み程度の、ごく些細な違和感。クライブはふと足を止めてそれを辿る。


 そして、気付く。


 数秒前、視野に入ってきた情報。


 アークメイジ・ランカニス。魔術士のようには決して見えない、奇妙な初老の男。その彼の一物の斜め横、太い二重の革の腰帯に、預けていたはずの短剣がいつのまにかぶら下がっていたことに。


 “いま、目覚めたばかりのはずなのに!”


 青年は弾かれたように舳先へ振り返った。


 欄干の上で、老魔術士もまた振り返っていた。彼は白い歯を朝日に輝かせてニカリと笑い、そして青年にこう言い放った。


「ではな、クライブ。次会うときには、連れションのひとつも出来るようになるといい」


「待っ――」


 伸ばしたその手は、あまりに遅く。


 踏み出す足取りは、あまりに軽く。


 そして早朝のアーヴィタリスの湾口に、派手な水しぶきが上がった。


 

(第2回につづく → http://p.booklog.jp/book/101410/read


この本の内容は以上です。


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