
Scene0 ――プロローグ
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人買いたちの酔った笑い声が聞こえなくなってから、しばらくが過ぎた。
そろそろ大丈夫だろうか、と私は凍えた指先に息を吐きかける。もう、彼らは眠りに落ちた頃だろうか。
天井までが板張りになった二頭引き馬車の内側は汚くて、寒くて、出入り口には商品を逃がさないための仕切りの鉄柵が設えられていて、まるで移動する檻そのものだ。
そして今、その『商品』とは私のことだった。
壁際のすみの木板の、足元から一メートルくらいのあたりは、そこだけが紙やすりで磨かれたように周囲の壁とは違う質感をしている。きっとこの馬車に押し込められた子供たちは皆、出来るだけすみの方にうずくまって、膝を抱えていたのだろう。点々とした床の染みはもしかしたら、乾ききることのない涙の跡なのかもしれない。
人買いたちはもっぱら地方の貧しい農民や債務者から子供を買って、都市へと運んでいた。
こんな陰惨な場所で連中が私たちと寝起きを共にするわけはなく、外にはあと一台、人買いたちの寝床となる場所が並列して止められている。
もう、彼らは眠りに落ちた頃だろうか。
青白い光がうっすらと差し込む天井近くの鎧戸の下に、私は排泄用の樽を引き寄せて、はずみで蓋を割ってしまわないようそっとその上に足を乗せた。
猫の額ほどの窓の隙間から覗くのは、相も変わらない――夜の街だ。
昏い空を狙うかの如く、隊伍を組んだマスケット銃のような煙突が無数に立ち並び、そこからは石炭を燃焼させて出た排煙がもうもうと垂れ流されている。工場には夜も昼もなく、蒸気タービンを回し続ける低い地鳴りのような音は止むことがない。
不意に視界を一匹の蟲が横切って、私はあやうく樽の上から転げ落ちそうになった。蟲は翅から青みがかった白い光を放っていて、間近でそれを見た私の眼の中には右から左への残光がこびりつく。
私の手のひらよりも大きなその生物の名は、夜光蟲。
自然界には存在しない彼らは街の光源とするためだけに造られた、いわば人工的な生命体だ。
それ以前、夜の明かりといえば月か蝋燭かオイルランプくらいだったものが、この蟲の誕生によって、人々は陽が沈んだあとでもほとんど不自由なく街中を歩くことが出来るようになった。ストリートには一定間隔で“餌柱”と呼ばれる二階建てくらいの高さの鉄の棒が建てられており、夜になるごとに、その先端に蟲を寄せるための蜜が塗られるのだ。
この光源による生活時間の延長と、水汲みポンプからはじまった蒸気機関の発達はたった百年かそこらのうちに、ごく平凡な海岸近くの町を世界有数の工業都市へと変貌させてしまった。
稼動し続ける工場の群れで作り出された製品は汽車や蒸気船で各地に運ばれ、その帰りの便は資源や嗜好品、それから、出稼ぎや移民の労働者を積んで戻ってくる。
眠ることを忘れた街、光る蟲が飛び交い、濃い蒸気が夜空すらもけぶらせる都市――アーヴィタリス・シティ。
……人買いに地方から連れてこられる子供たちとは違って、生まれてこのかた十四年間、私はアーヴィタリスの街の外に出たことがなかった。そのぶん治安の悪い区画や危険な時間帯はわきまえているつもりだったけど、自信が油断となったか、いつもなら安全な通りにふと人気が失せた夕暮れ、背後から小麦のにおいのする大きな袋をかぶせられてしまったのだ。
迂闊だった。気を緩めてしまえば、こういうことになる。誘拐なんて普通ではわりに合わない犯罪だけれど、ただ、私は少し、普通とは違う容姿をしてるから。
視界の端にかろうじて、人買いたちの乗っている馬車が見えた。窓から灯かりは漏れていない。多分、もう大丈夫だ。彼らはきっと夢の中だ。ためらって今を見送れば、次に逃げ出せるチャンスがいつやってくるかわからない。私は登ったときと同じくらいの慎重さでそろそろと樽から降り、そして馬車の内側に振り返って――……その動作のなりゆき上、こちらを見つめていた一対の瞳と、正面から視線を交錯させることとなった。
「……!」
瞳の主は声にならない悲鳴をあげて顔を伏せる。私とは三メートル以上も離れているというのに、まるで直接頭でもはたかれたかのような勢いである。
顔をかくして震える華奢な肩。組んだ腕に、抱えた膝にこぼれるさらさらの髪。そして一瞬だけ私と合った、怯えに染まる碧の瞳。その小さな女の子は、私より先に馬車に乗せられていたもうひとりの『商品』だった。
檻の反対側のすみに背をよせてすわりこむ、彼女の年齢は十歳くらいだろうか。おそらく人買いたちにとっては私は行きがけの駄賃稼ぎで、この女の子の方が本命なのだろう。私とは別の意味で、彼女もまた、街で見かける普通の子供たちとは違った容姿をしていた。
そもそも労働力としての児童売買は、法律が厳しくなってからのここ数年で廃れてきている。なのに私や彼女みたいなのが『商品』とされるのは、工場や炭鉱以外に存在する、もっと別の需要を満たすためだった。
たとえば彼女のように綺麗だったり、また私のように――であったりすること。普通とは違う、人目を引く珍しい容貌をしてること。それは希少なものに価値を見出す金持ちの好事家に需要があるということだ。そういう意味合いでなら、私と乗り合わせているこの少女にはとびきり高い値札がつきそうだった。
窓から差し込むさえざえとした光を受ける彼女の色素の薄い金髪は白銀色に映え、顔立ちは幼いながら良く整っており、このまま大人になれば美人になるであろうと見る者に予感させる。そして何より、袖口から覗く二の腕やふくらはぎの、すべらかそうな白い肌には……私はついつい、嫉妬を抱かずにはいられなかった。誰かのものを羨ましがるなんてガラじゃないけれど、一応こちらも女であるからにして、皮膚に関することだけは、どうにもコンプレックスを刺激されてしまうのだ。
……そんなのはあっちに置いておくとしても、不思議なことに、そんなショーウィンドウの中の人形のような容姿の少女が身に纏っているのは、私とさして変わらないような着古しでしかなかった。
もしかしたら彼女は、没落した名家のお嬢様とかだったりするのかも知れない。社会の価値観が急激に変わり続けている近頃では、長い歳月栄えていたものに、とつぜん斜陽が差すことも珍しくないからだ。蝶よ花よと大切にされてきた日々は病人が息を引き取るように終わり、その白い手を人買いの毛むくじゃらの腕に掴まれて、乗せられた薄汚れた馬車はもう彼女の家のものではない荘園を抜けて、今はこうして――……
……根も葉もないストーリーを勝手に作りかけ、私は慌ててそれを断ち切った。こんなふうに節操なく想像力が暴走するのは、育ての親の婆に夜毎『お話』を聞かされ続けた結果身についた、厄介なクセだった。
ぐずぐずしていられない。急がないと。
私は名も知らぬ少女のことを頭から締め出し、馬車の出入り口を塞いだ錠前つきの鉄柵の前に立つ。
柵の一本一本は大人の手首と同じくらいの太さがあり、錠前は頑丈そうな機械仕掛けで、何の工具もなしにそれらを破って逃げ出すことは到底出来ない、普通なら。
――婆たちが死んで、何年が経ったか。いくら街のことを知り尽くしたつもりになっても、未成年の小娘でしかない自分が、何の理由もなしに独りで生きていけるはずなんてなかった。いや、なまじ知っているからこそ、それが不可能だとわかる。
私は右手で鉄柵を握る。
斜め後ろから、女の子の視線を感じる。怯えの中にかすかに、好奇心が混じっている。そして私は、そんなふうに見られることに慣れている。無理もない、とさえ思える。たとえ本当に、彼女が育ちの良いお嬢様だったとしても、
錆びた鉄の身体が動くのを見るのは、きっとはじめてだろうから。
ざらり、と、私の手が触れた鉄柵からは、金属同士の擦れあう音がした。指の隙間からは赤錆の粉がかすかに散った。その粒子は鎧戸より吹き込む気流に呑まれ、床に落ちることすらなく宙にかき消える。
私の皮膚の半分くらいは、普通の人間のものではない。それはどういうわけだか、肌とほとんど同じ機能をもっているくせに、見た目も触り心地も、まぎれもなく鉄でしかなかった。骨より固いくせに、関節のところだけは曲がった。うぶ毛も生えないのに、汗をかいた。普通の肌と鉄の肌の境目はまるで爪の生え際のように馴染んでおり、しかも手足の大部分は、赤銅色に醜く錆びついてしまっている。その濁った色はまさしく野ざらしになったブリキのおもちゃの慣れの果てだった。
こんな人間が自然に生まれるわけなどない。私の身体は街を飛び回るあの夜光蟲と同じ、人為的に造り出されたものなのだ。
今から百年以上も前、科学者たちは、生命に“手を加える”技術を発見したのだという。
加工生命と呼ばれる彼らの研究成果。それは結論だけならば非常に明快だ。
既存の生物に、余所から持ってきた因子を接合するのである。そう、ちょうど別の植物同士を繋ぎ合わせる接ぎ木のように。
技術は獣や鳥の機能を人に付け足すことから始まり、さまざまな、それはもうさまざまな、想像力の限りを尽くした加工生命が作られていった。やがてそれも、行き過ぎたために規制されることになるのだが――、その末裔が、私みたいな人と鉄のキメラや、あの不自然な光る蟲というわけだった。
まったく、悪趣味なこと! 科学者たちがどんな理由があって半獣人だとか鉄の肌を持つ人間とかを作ったのかなんて事情は知らない。知らないけど、かつて私みたいなのを造ることに血道をあげたであろうそいつらのことを想像すると、むかつくなんてことばが生易しいほど黒っぽい気持ちになる。
だってこの肌のおかげで私は誰からも奇異の眼で見られるし、自分でも、錆びの浮く身体など好きになれたものではない。街の明かりになる分、蟲のほうがまだ役に立ってるじゃないかと考えるとやるせなくすらなるうえ、おまけに最近じゃ人間の加工生命など珍しいせいで、裏の見世物小屋に売り払おうと目論む小悪党から狙われたりもするのだ、こんなふうに。
……けれども。
……その代償というにはまるで釣り合っていないが、便利なことも、ひとつだけなくはない。
私は右手で鉄柵を握る。
力はこめずに、けれど、しっかりと。
夜の温度に染まった鉄の棒は、『皮膚』を通して骨までじんと沁みるほど冷たい。
意識を集中する。
人買いへの怒りだとか、むかつくもの、気分の悪いもの、不愉快さ、腹立たしさ、苛立たせるもの、そういった感情を胸の中からかき集め、指の先へと、血液に乗せて送り込む、そんなイメージをする。
強く。
強く強く。
強く、強く、強く強く強く強く強く強く――……
“ブッ壊れろ”
――金属のひしゃげる悲鳴が馬車の内側に響いた。
突然のことに、背後でこちらの様子を伺っていた女の子はひどく驚いて身体を縮こまらせる。構わずに私は続ける。壊れろ、壊れろ、壊れろ、壊れろ。
数秒の後、一際大きい音をあげて、私の手のひらに触れている鉄の柵が捻じ切れた。
手を離すとそこにはペンチで切った針金のような痕が残っている。ただし鉄柵は針金とは比べ物にならないくらい太い。もちろん、リンゴも割れないような私の握力でこんなことが出来るわけもない。
これが、理由だった。
この街で、私が独りで生きてこれたことの。
『お話』に出てくる登場人物みたいに、なにかを救えるような類のものではない。自衛のために人買いをやっつけられるほどですらもない。ただ、こうして隙を見て逃げ出したり、ちょっとした盗みを働くときに便利だったりするくらいのちから。
鉄や金属に……つまり、私に近いものに対するまるで八つ当たりのようなちから。
これはどうやら、鉄の皮膚を持った人間なんてへんてこなものを作ったときの副産物らしい。生物に本来ないはずの特徴を付け加えたための、親和性がなんとかかんとか。
しかし――
私は肩越しにちらりと背後をのぞく。女の子の眼からは好奇心が消えて、ただ得体の知れない怪物に怯える、今にも泣き出しそうな瞳になっていた。
……それは当然といえば当然の反応だ。
彼女からすれば、半分鉄の化け物が今度は自分に襲い掛かってきて、その細い首を鉄柵と同じようにヘシ折られてしまうかもしれないのだものね。
ため息をついて視線を戻す。
言うまでもなく、私にはそんなことをするつもりなどないけれど、そのことを口で説明したってなんら得になりはしない。怯えきった女の子をなだめて、いちいち自分の身体について弁明するのも癪だし面倒だし、それに今は私のことを『恐いものを見る目』で見ているが、買われた先で遭うであろう『恐い目』は、きっとこの程度ではないはずだった。
それが具体的にどんなことだか、また想像しかけて、やめた。彼女がどんな末路をたどろうが、私には関係のないことだ。こっちのことを化け物のように見る相手に同情したって、仕方ないし、私だって自分のことだけで精一杯なのだ。急がなくちゃいけない。鉄柵を壊した音を聞きつけ、今にも人買いが目覚めてきてもおかしくない。そうなったら終わりだ。
背筋を伝う汗を感じながら、私は鍵の下側を掴んで同じことを繰り返す。上下を砕けば、錠の部分を取り外すことが出来る。
不安をよそに、それはあっけなく完了した。
きしむ扉を開け、外を伺う。見慣れない道路の餌柱に夜光蟲が群れている。目に付くアパートのぼろさ加減から言って、どうやら労働者の寝床となる界隈みたいだ。
いくら光源があるとはいえ、こんな遅い時間に出歩くのは蟲の糞を清掃する掃除夫たちくらいのものだった。通りの向こうに、ゴム製の全身鎧のような服で身を固めた掃除夫が、巨大なストロー状の棒で地面に洗浄剤を吹きつけているのが見える。
冷たい風に身を震わせると、湿った空気からはかすかに潮の匂いがする気がした。人買いの馬車に乗せられて、だいぶ海の近くにまで連れてこられてきてしまったらしい。ここしばらくねぐらにしていたエトラン河の上流の貧民区からはだいぶ離れてしまったが、ねぐらといってもどうせ何があるわけでもなし、惜しいとは思わなかった。
お金は靴の底に少し隠してあるだけ、唯一の装飾品であるペンダントは人買いさえ手を出さないくらいの安物だけど、鍵のかかったドアノブや金庫の扉も、誰にも見咎められずに触れさえすれば壊してしまえる。これまでそうして生きてきたし、これからもそうして、独りで生きていくのだろう。
馬車から出る前に、私はもう一度背後を振り返った。
膝を抱えたままの女の子と、再び視線が合う。けれど、怯えの色は残したままでも、今度は彼女は顔を伏せようとはしなかった。どころか、その碧の瞳と見つめあうと、むしろ私が先に視線を逸らしてしまうはめになる。
足元で、開け放たれた戸口の形に青白い光が差し込み、そしてその上を、うつむいた私の影が切り抜いていた。
……。
私のことを見てあれだけ怯えるようなら、きっと彼女は鉄肌の人間どころか、加工生命だって見るのは初めてだろう。ならば、彼女は『探しもの』の手懸りにはならない。口をきくだけ無駄というものだ。
……さぁ、行こう。 私が逃げ出したことで彼女が人買いに責められようが、売り払われた先でどんな目にあおうが、そんなの私には関係のないことだ。同情できる余裕なんか、私にはない。死にたくなけりゃ、自分のことだけを考えていくしかない。
寝起きの身体を無理矢理動かすように、私は向き直って片足を持ち上げた。その背に、少女の視線を感じながら。
今はとにかく夜明けまでに、人買いが追いつけないところまで逃げなくては……。
……。
……。
……。
「……あのさ、」
狭い馬車の内側に声が響いた。
――気がつけば、背を向けたままで、私は口を開いていた。
閉じ込められてからずっと言葉を発すことなどなかったせいか、その声は自分のものだというのに妙な違和感をもって鼓膜をたたく。しかし、ふいに話し掛けられた少女のほうにとってはそれどころではなかったらしい。ただでさえ大きな瞳がこぼれ落ちてしまうんじゃないかと心配になるくらいに見開かれ、私を凝視していた。
「……えっと、」
予想通りといえば予想通りの彼女の反応に、けれども私は狼狽して言葉を続けられない。もともと衝動的に声をあげたので、あとに続くセリフなんか、ろくすっぽ考えていなかったのだ。それをさがしあぐねながら、間を繋ぐつもりでゆっくりと振り返り、ゆっくりと少女に近寄る。怯えきった彼女は頭を庇うかのように、膝を抱えていた腕を交差させた。
一度つばきを飲んでから、私は意を決して彼女に呼びかけた。
「名前、言える?」
「…………っ」
「歳、いくつ?」
「……っ、…………っ……!」
少女は答えずに、ただがくがくと震えている。その細い喉からは、ひゃっくりに似た意味をなさない嗚咽がもれている。それは涙なしに泣いているような、そんな感じだった。
どうしたらいいのか、しばらく悩んだ。言葉が通じてないんじゃないかと疑わさせられるほど、意思の疎通を取ることができない。もしかしたら他の国から買われてきたりしたのだろうか? とさえ思う。流民の血を引いた私がこの国の言葉を喋って、どう見ても現地人な容姿の彼女がそれを理解できないというのはあべこべな話だけれど、万が一、ということもないわけではない。念のために私は訊いた。
「あのさ、私の言葉、わかる?」
「……」
すると彼女はこわごわと頷いて、こちらの問いかけを肯定してみせた。まるで食べられる前の小動物がもがくような、すごく弱弱しい仕草だったけれど、それは私のアプローチに対するはじめてのまともな反応に違いなかった。
少なくとも、会話は成立するようらしい。そのことに心確かさをおぼえて、私はもう一歩少女に寄った。そして目線の高さの差が気になって、手を差し伸べてみた。とにかく早くここから抜け出したくて、気が急いていたのもあった。
「……その、立てない?」
「ひっ!」
けれども、たったそれだけのことだというのに、彼女はまるでナイフを突きつけられたみたいに逃げ場を求めて後ずさりをした。壁に背中をずりずりと擦りつける滑稽なしぐさはまるで、その小さな身体を壁の隙間ですりおろそうとしているようですらあった。
「…………ッ」
自分の顔つきが急速に強張っていくのが、はっきりわかった。矢庭に浮き足立っていた感情も、元の冷たさを取り戻す。――もうっ、時間が惜しいっていうのに、どうすればいいのよ、こんなの!
「あのさ。べつに取って食おうってわけじゃないからさ、言葉わかるならせめて私のはなしを聞いてくれない?」
投げやりになって、早口になって、目を閉じてそっぽを向いて私は捲くしたてる。
「なんで人買いに売られたのかなんて事情知らないけど、あんたさ、このあとどうなると思う? わからないなら教えてあげるけど、ま、おおかた娼館行きか、もしかしたら焼印押されて変態成金の囲い鳥ね。――どっちにしろ、ろくなもんじゃないわよ。あんたなんか、今は綺麗な髪や肌してるけど、それだって何年もたたないうちにボロボロにされちゃうんだからね。スラムじゃ性病に罹って捨てられた子もたくさんいるのよ。そうなったら、もう本当に、ゾンビになるのを待つだけなんだから。足の長くて親切なおっさんがパトロンになってくれるのなんて、そんなのお話のなかのことだけなんだから――」
いきおいまかせにそこまで口走ってからようやく、薄目をあけて伺ってみるが、少女は相変わらず膝を抱えて震えていた。その様子からは、こちらの話を聞いているのかどうかも知ることはできない。
吹き込む風が寒くてならない。なんで扉を開けたままにしてしまったのだろう。聞き手に受け止められなかった言葉たちが、狭い馬車のなかで空回りしている。それは夜風よりもずっと寒い。……なんで、私、こんなことしてるんだろう……?
「……私はこれから、ここから逃げるけど、」
自分が言おうとしていることが信じられなくて、少しだけ口篭った。
「……あんたが今言ったような目に遭いたいってなら、ここで泣いてればいいけど――」
「…………」
「もし、そうじゃないのなら……そりゃ、私だってぜったい逃げ切れるってわけでもないし、どこかに逃げ込むアテがあるがあるわけじゃないけど――」
「…………」
「もし、あんたがその気なら……、わ、私と――……」
「…………」
「…………」
――私と、一緒に逃げない?
そう続くはずだったセリフは、しかし、ついぞ喉より上へ吐き出されることはなかった。
息が詰まるような苦しさが胃の底からせりあがってきて、それは後の言葉を堰きとめていた。
衝動は引いて、代わりに高波みたいな後悔がやってくる。
……無駄だ。こんなのは、徒労だ。猫に唐がらしを食べさせようとするみたいなものだ。どうせ彼女は私のことを化け物だとしか見ていない。怯えきった態度と表情がなによりのその証拠。彼女にとっては、人買いも私も似たようなものでしかないのだろう。まったく、誤謬もいいところだ。彼女の立場からすれば、この助けを拒絶なんかできるわけないのに。それどころか、そちらのほうから助けて欲しいと縋りついてくるべきなのに。それなのに……。
馬鹿らしい。馬鹿らしいよ。私まで、どうしてこんなふうに震えなくちゃいけないの。
これじゃまるで、私が彼女についてきてもらいたいみたいじゃないか。
もう、行ってしまおう。放っておこう。どうかしてたんだ。こんな娘のこと忘れて、自分のことだけを考えていればいい。連れて行ったところで守れるわけじゃないし、それどころか足手まといになるだけなんだ。――それに、わかっていたはずだ、錆びかけた加工生命が、誰かに受け入れられることなんかないって。
育ての親の婆は言っていた。行方不明の私の母も、鉄の肌をした加工生命だったと。
それはつまり、こんな身体にもご同類がいるということだ。独りで生きていくことに耐えられないというわけじゃないけれど、私みたいなのが付き合えるとしたら、確かにそんな相手しかいないだろう。他にすることがないなら、私はそれを探そう。こんなところに用はない、だから、もう行ってしまおう。そう気持ちを切り替えようとしたとき、細い指先が、鉄で覆われていない私の右手のひとさし指と中指に触れていた。
「………………………………レルエッタ」
「――え……?」
不意をつかれて、私はまぶたをしばたかせる。
「……レルエッタ」
もう一度彼女は言った。
そのくちびるからこぼれた、蟲の羽音よりもか細い音が、『名前は?』と訊ねた先ほどの問いかけに答えるものだということを、私はとっさには理解できなかった。
レルエッタ、というその名前が、流民である私のそれとはとても違う響きをしてるせいもあるし、質問したのを忘れていた、というのもあるけれど、なによりも……こんなふうに誰かが私に触れてくるのは、本当にひさびさだったから。
彼女だって冷え切っているはずなのに、重ねられた指先は不思議とあたたかい。
戸惑って少女を見る。その瞳は答えを待っているような気がして、私は自分の名前を告げた。
「……サナ、でいいわ」
夜は深く、家々の戸口は締め切られている。
掃除夫たちが洗浄していった石畳に足音を立てながら、路地裏めざして駆け込む。
だみ声に驚いて振り返った瞬間、人買いたちの馬車の窓に灯かりがともるのが見えた。
彼女をつれて、どう逃げればいいだろうか? ピストルを持った人買いたち相手にはたして、どこまで逃げられるだろうか? 加減して足を動かしながら、私はそう自問する。
気持ちは焦るけれど、今は怖いとは思わない。小さな歩幅に合わせなくちゃいけないのに、今は何故だか、それをあまり煩わしく思わない。
夜は深く、けれど街のどこもかしこもを翅虫たちが照らしだしていて、私たちふたりぶんの姿でさえ、闇に紛れるのは難しそうだった。
(第1回につづく → http://p.booklog.jp/book/101383/read)
この本の内容は以上です。