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プロローグ

 今日も私のポンコツな心臓は動いている——。

 藤沢陽菜(ふじさわはるな)は病院のベッドで目を覚まし、溜息をついた。ベッド脇の心電図モニタにはそこそこ規則的な波形が映し出されているが、おそらくその波形自体が正常なものではないのだろう。
 生まれたときから心臓に欠陥を抱えていた。自宅で過ごした時間より入院の方が長いくらいである。治る見込みはなく、心臓移植をしない限り成人になるまで生きるのも難しいと言われてきた。次に発作が起こったら危ないとも聞いていた。だから先日発作で倒れたときはもう死ぬんだなと思ったけれど、案外しぶといらしく命は繋がっていた。
 生きることに未練はない。
 自分がいかに家族の負担になっているかくらい、世間知らずなりにわかっているつもりである。ごく平均的な中流家庭にとって陽菜の医療費はかなり厳しい。完治する見込みがあればまだしも、あと数年で死ぬとすれば溝に捨てるようなものである。それでも人として親として見捨てるわけにはいかないのだろう。平均的な両親は世間体という枷から逃れられないでいるのだ。
 三歳上の姉の美雪は夢をあきらめざるをえなくなった。長らく見舞いにも来ていなかったのに、ある日ひとりでやってきたかと思うと泣きじゃくりながら陽菜を非難した。あんたのせいで家族がみんなつらい目に遭っているの、あんたが生まれたせいで私の人生もむちゃくちゃよ、いつまでのうのうと生きてるのよ——など喚くだけ喚いて帰っていった。
 あとで母親に聞いたら、医師志望の美雪に大学進学をあきらめさせたという話だった。あいにくこんな辺境の地から通える大学はなく、進学するなら実家を出てひとり暮らしするしかないらしい。しかしながら学費が免除される見込みはなく、奨学金をもらるかどうかもわからず、たとえもらえたとしても生活費までは賄えないという。
 きっと美雪は他にもいろいろとあきらめてきたのだろう。それもこれも陽菜のせいだ。随分ひどいことを言われた気もするが、彼女の心情を思うと責める気持ちにはなれなかった。どれも事実であり言われても仕方のないことである。逆の立場ならきっと陽菜も同じことを思っただろうから。
 そのこともあり陽菜は高校に進学しなかった。両親は高校くらいは遠慮するなと言ってくれたが、美雪に大学をあきらめさせて、その元凶である自分が進学するなんてことはできない。どうせ進学したところで出席日数が足りなくなることは目に見えている。それ以前に未来のない人間が高校に行っても無駄でしかない。
 自分がいかに持て余されているかは自分自身でわかっている。いまや両親が見舞いに来ることさえ少なくなっていた。見舞いに来ても表情はいつも明らかに作り笑いで、ひどく気を使っていることは伝わってくるが、暗く塞ぎ込んだ気持ちは隠せていない。早く死んでくれればいいのにというのが本音だろう。もちろんそれなりに善良で常識のある人たちなので、そんなことを口に出したりはしないけれど。
 医師や看護師たちは優しく接してくれるが、それが仕事だからだということはわかっている。家族とは違って他人事だから深刻にならず笑顔を見せていられるのだ。もちろん感謝はしている。冷たく事務的な態度をとられるよりかはよほどいい。だからといって素直に甘えられる類のものではなかった。
 陽菜はいつしか笑うことができなくなり、感情さえも希薄になっていた。
 ただ、ボランティアで来ていたおねえさんの笑顔にだけはすこし心が動かされた。長期入院している子供たちに読み聞かせをしたり一緒に遊んだりするボランティアだが、来るたびに陽菜のことを気に掛けてくれていた。それもボランティアとしての仕事なのかもしれない。けれど彼女の屈託のない笑顔に偽りはないように思えた。
 生まれ変わりなんて信じていないけれど、もし生まれ変われるのなら今度はおねえさんのような人になりたい。自分以外の誰かのために役に立てるような、誰かに必要とされるような、誰かに好きになってもらえるような。彼女の優しい笑顔を思い浮かべながら目を閉じようとした、そのとき。
 ガラガラと病室の扉が開き、いつになく真剣な面持ちの医師と看護師が入ってきた。その後ろに続いたのは両親だ。ベッドに横たわったまま、じっと怪訝なまなざしを送る陽菜に医師は告げた。藤沢さんの心臓移植が決まりました、と——。


第1話 あきらめたはずの未来

「手術は成功しましたよ」
 陽菜が目を覚ますと、ちょうど点滴を付け替えていた看護師がにこやかにそう告げてきた。
 ゆっくりと呼吸をして目を閉じると微妙に鼓動が感じられた。ここで動いているのはどこかの誰かの心臓——信じがたいが、心臓移植が成功したのなら事実そうなのだろう。他人の心臓と入れ替えることができてしまうなんて、医学の進歩は恐ろしい。
 手術後しばらくは入院したまま慎重に経過観察をしていたが、特に問題もなく、数か月後には普通に生活を送っても構わないというお墨付きを得た。実際、新しい心臓はとても優秀なようで、以前はすぐに苦しくなっていたのにそういうこともなくなり、鉛みたいだった体も信じられないくらい軽く動かせるようになっている。
 ただ、嬉しい気持ちよりも戸惑いの方が大きい。
 あきらめたはずの未来が急に目の前に広がったのだ。死ぬことしか考えていなかったのに、その心積もりしかなかったのに、急に生きろと言われても途方に暮れてしまう。今は十七歳なのであと三年も経たずに成人する。生かされるのではなく生きていかねばならないという現実は、とても重いし、とても怖い。
 姉の美雪は県外でひとり暮らしをしながら働いている。陽菜のせいで大学進学を断念させられたため、それなりの職を得るために実家を出たのだ。だから陽菜もそうしなければならないのだろうが、今はまだ通院もしなければならないので、目処がつくまでは実家に置いてもらうことにした。
 就職しようにも中卒ではまともな働き口は見つからない。こんな辺境の地ではなおさらだ。とりあえずはアルバイトから始めるしかないだろうと、情報誌を見たり街中を歩いたりして募集を探した。学歴や病歴を理由にいくつか断られたものの、どうにか近所の洋菓子店で雇ってもらえることになった。
 夫婦だけでやっている小さな洋菓子店だが、奥さんが病気療養中のためアルバイトを雇うことにしたのだという。陽菜に任されたのは店番、つまり接客や会計などである。店長は厨房にいることが多いため基本的にはひとりで行う。ぽつぽつとしか客が来ないので忙しいということはないのだが——。
「藤沢さん、もうすこし笑顔にならんかね」
「笑顔……」
 陽菜が困惑してつぶやくと、店長は苦笑する。
「一生懸命やってくれてるのはわかるんだがね。あんまりにも無表情で事務的すぎるんだわ。声も暗いからもっと明るくハキハキとさ。慣れんうちは緊張もしてるし難しいだろうから、まあ徐々にね」
「はい……」
 ここしか雇ってもらえなかったので仕方ないが、やはり接客業は向いていない。実際に働くようになってつくづくそう実感した。店長は緊張しているため表情が硬いと思っているようだが、そもそも笑い方さえ知らないのだ。笑顔を作れといわれてもそう簡単に作れるはずがない。
 だからといって次のアルバイト先を見つけるのも難しいので、当面はここで働かせてもらうしかない。鏡に向かって練習を始めたがほとんど表情は動かなかった。どう頑張ってもぎこちない不自然な面持ちになるだけだ。相談する相手もいないので何が悪いかすらわからない。日々鏡に向かい自分の顔を見ては途方に暮れていた。

 カランカラン——。
 きれいに響くドアベルの音が聞こえて顔を上げると、若い男性が入ってきた。まるでファッションモデルのようにすらりと背が高く、色白で整った顔をしているが、髪は清潔感のある黒のショートでチャラチャラした印象はない。何の変哲もない半袖シャツにチノパンという格好もやけにサマになっている。
 東京ではさほどめずらしくもないのかもしれないが、こんな辺境の地ではひどく目立つ容姿だ。何となく地元の人間ではないような気がする。出張だろうか。すこし離れたところに有名な観光地はあるものの、この近辺には何もなく、旅行者が来るということはあまり考えられない。
「へぇ、おいしそうだね」
 彼はさまざまなケーキやゼリーの並べられたガラスケースを覗き込んでそう言うと、顔を上げて陽菜に目を向ける。
「おすすめはどれ?」
「……えっ」
 まさかそんなことを訊かれるとは思わなかった。
 ただのアルバイトなのでケーキに詳しいわけではない。ここに並んでいる商品の説明さえろくにできない。食べたことがあるのも数種類だけという有り様だ。顔をこわばらせて黙り込んでしまった店員失格の陽菜に、彼は怒りもせず、まるで子供に接するかのように優しく問い直す。
「君がいちばん好きなのを教えて?」
「私は……その、フレジェが好きです」
 すこし思案をめぐらせてからそう答えを返す。
 ここで働き始めた日の帰りに店長からもらったのがフレジェである。それまで数えるほどしかケーキを食べたことがなく、それもパサパサのショートケーキだけだったので、ふんわりと甘くなめらかなそのケーキは衝撃だった。それ以来、陽菜にとって思い入れのあるケーキになったのだ。
「じゃあ、それひとつお願い」
「はい」
 まだ慣れない手つきでケーキを箱に詰め、保冷剤を入れ、会計をしてから手渡すと、ありがとうございましたとお辞儀をする。気をつけているつもりだが、やはり抑揚のない声になってしまう。そして表情もほとんど動いていない。けれど彼はにっこりと笑みを浮かべて帰っていった。

 ほとんどが主婦かお年寄りという客層で若い男性はめずらしく、また短いながらも定型外の言葉を交わしたこともあり、彼のことは印象に残った。けれどそれだけである。翌日には何事もなかったかのように淡々と店番をこなしていた。しかし——。
「フレジェ、おいしかったよ。今日もひとつお願い」
 例の男性がふらりと姿を現した。
 また来るとは思わなかったので驚いたものの、勧めたものを気に入ってもらえたことには安堵した。本当においしいと思わなければわざわざ買いには来ないはずだ。自分が作ったわけではないけれど何かとても嬉しかった。

 以降、男性はほとんど毎日のように訪れて、フレジェをひとつ買うようになった。
 旅行でも出張でもなくこのあたりに住んでいるのだろうか。それにしても毎日ケーキなどさすがに買いすぎのような気がする。それもフレジェばかり。陽菜が悪いわけではないが何となく勧めた責任を感じてしまう。彼がフレジェを買うたびに他のものを勧めてみようと思うが、結局、何も言えないままだった。

 男性が来るようになって二週間が過ぎたころ。
 陽菜がアルバイトを終えて裏口から出ると急に雨が降り出した。今日は晴れの予報だったので傘は持ってきていない。家までは徒歩十分ほどなので走って帰ればいいのだが、かつて同じ状況で発作を起こしたことがあるため、もう大丈夫だとわかっていてもすこし怖い。
「傘、持ってないの?」
 軒下で空模様を見つめながらじっと考え込んでいると、ふいに横から声をかけられた。その声だけで誰だかわかる。振り向くと、彼はくすりと笑いながら紺色の傘を差し掛けてきた。
「よかったら家まで送っていくよ」
「えっ……でも……」
「気晴らしの散歩だから気にしないで」
 肩をぽんと軽くたたいて促され、陽菜は戸惑いながらも彼の隣におさまり足を進める。並ぶとやはり上背がある。小柄な陽菜では見上げなければ顔が窺えないくらいだ。
「家はどのあたり?」
「歩いて十分くらいです」
 家の方向を指し示しながら答えると、彼は了解と微笑んだ。
 時折、彼を誘導しながらいつもの帰路を進んでいく。いつからあの店で働いてるの? もう慣れた? など差し障りのない話を振られるが、陽菜に気のきいたことなど言えるはずもない。しばしば会話が途切れて沈黙が落ちるが、傘に当たる雨音がその気まずさを打ち消してくれている気がした。
「ここです」
 やがて陽菜の自宅前に着いて足を止めた。
「へぇ、ご近所さんだったんだね」
「え?」
 思わず顔を上げると、彼は口もとに笑みを浮かべて傘を閉じる。いつのまにか雨はほとんど上がっていた。
「僕はあのアパートに住んでるよ」
 そう言いながら、道路の突き当たりに見える二階建ての小さな集合住宅を指さした。陽菜が退院したころにできたものなのでまだ真新しい。洋菓子店からそう遠くないところに住んでいるのだろうとは思っていたが、まさか陽菜のご近所さんだとは。
「じゃあね、またお店に行くよ」
「ありがとうございました……あの」
「ん?」
 帰ろうとする彼の袖をとっさに掴んでしまう。ここまでしたのだからもう後戻りはできない。幾分か緊張しながら口を開く。
「レアチーズケーキもおいしいです」
 彼は一瞬きょとんとしたが、やがて小さく肩を震わせてくすくすと笑い出した。唐突すぎて言いたいことが伝わらなかったのかもしれない。どう説明したらいいのか思案をめぐらせていると、頭にぽんと大きな手がのせられた。
「今度はそれ買ってみるよ」
「……はい」
 意図するところは正しく伝わっていたらしい。陽菜は安堵するが、同時に鼓動がドクンと打つのを感じた。まるで軽い発作が起こったかのように。遠ざかる彼の後ろ姿をぼんやりと眺めながら、ぎゅっと胸を押さえた。

 それからも彼は毎日のように洋菓子店を訪れた。
 雨の日に約束したとおりレアチーズケーキを買ってくれた。どうやら気に入ったようで、以降はフレジェとレアチーズケーキを交互に買っていくようになった。プリンもおすすめだと伝えると、ほどなくしてそれもローテーションに加えられた。
 アルバイトの帰りには彼と出会うことが多くなった。気晴らしの散歩だというので何となく一緒に帰っている。陽菜のことを話したり、彼のことを聞いたりして、互いのことをすこしずつ知っていった。
 彼の名前は朝比奈総司(あさひなそうじ)。東京出身だが大学卒業後にこちらに引っ越してきたらしい。フリーランスなので時間に自由がきくのだという。言われてみれば、毎日昼間に洋菓子店を訪れたり散歩をしたりなど、普通の会社勤めの身では難しいだろう。
 やがて秋が過ぎ、あたりが白く染まる季節になった。
 そのころには総司が店に来ないと心配するようになった。帰りにも会えないと不安になった。彼にも都合があるだろうし、そもそも約束などしていないのだから、来ない日があっても当然である。頭ではわかっているが、もう二度と来ないのではないかと考えて怖くなるのだ。
 不思議だった。入院中に家族が見舞いに来なくても何も感じなかった。持て余されていても仕方がないとしか思えなかった。多少の寂しさはあっても大きく心を動かされることはなかった。なのに、彼が一日来ないだけでどうしてこうなってしまうのだろう。
 きっと贅沢になっているのだ。今までは何もないことが当たり前で望みさえせずにあきらめていた。けれど思いがけず楽しい時間を手に入れてしまい、本当はそれだけで満足しなければいけなかったのに、図々しくも勝手に継続を期待するようになっていた。
 そもそもこれほど感情を揺り動かされるのは初めてのことだ。彼と言葉を交わすだけでトクトクと鼓動が高鳴るのを感じる。彼と会えないだけでもやもやして気持ちが暗く沈むのを感じる。嫌われたのではないかと不安になり心臓がぎゅっと締めつけられる。
 まるで自分ではないみたいだった。姉に罵られてもほとんど心が動かなかったのに。会えなくなると困る人なんて今までいなかったのに。家族でさえもどうでもいいと思っていたのに。いったいどうしてしまったのだろうと戸惑いながらも、どうすることもできず、ただ自分の感情に振りまわされながら過ごすしかなかった。

 やっぱり今日もいない——。
 アルバイトの帰り道、密かにあたりを窺って白い溜息を落とした。もう四日も総司の姿を見ていない。三日以上も店に来ないことは初めてで不安が募る。彼の住んでいるアパートは知っているが押しかける勇気はないし、押しかけるだけの理由もない。
 気にしないようにしようと自分に言い聞かせながら家路を急ぐ。ショートブーツがしゃりしゃりとみぞれ状の雪を踏みしめる。自宅の前まで来ると、彼の住んでいるアパートに目を向けてわずかに目を細めた。
「久しぶり……かな?」
「?!」
 唐突に背後から声をかけられて心臓が飛び出しそうになる。それが誰かは一瞬でわかった。勢いよく振り返ると思ったとおりそこには総司が立っていた。肩にボストンバッグを掛けてにこやかに微笑んでいる。
「両親に呼び出されて実家に帰ってたんだ。いま戻ってきたところ」
「そう、だったの……よかった……」
 冷静に答えたつもりだったが声は震えていた。おまけに目は融けそうなくらい熱くなる。
 私、泣いてる——?
 頬に伝うものを感じて指先で触れると確かに濡れていた。悲しいわけでも嬉しいわけでもない。ただ安堵しただけでどうして涙がこぼれているのだろう。物心がついてから一度も泣いた記憶はなかったのに。困惑していると、壊れ物を扱うかのようにそっと優しく両腕に捕らえられた。
「ごめん、言っておけばよかったね」
「そんなこと……別に……」
 両親にさえ一度も抱きしめられたことはなかった。あたたかい体温につつまれて、バクバクと壊れそうなほど心臓が強く脈打っている。発作が起こるのではないか、死んでしまうのではないか——自分の心臓がどうなっているのかわからず怖くなる。縋るように彼のジャケットの裾をぎゅっと握りしめると、頭上で熱い吐息が落とされた。
「藤沢さん、君が好きだ」
「……?」
 耳元で囁くように言われたが、何を言われているのかすぐには理解ができなかった。抱きしめる腕にやわらかく力がこめられて、わけのわからないまま彼と密着する形になる。
「付き合ってほしい」
「付き合う……?」
「僕の恋人になって」
 小説で読んだことがあるので概念としては一応知っている。けれど自分自身に関係してくるなど想像もしなかった。完全に別世界の話で羨ましいと思ったことさえなかった。突然そんなことを言われたって——思考回路が焼き切れたかのように何も考えられない。
「……あの」
「ん?」
 陽菜が身じろぎすると腕の力をすこし緩めてくれた。彼の胸元をそっと押して体を離し、壊れそうなほど心臓が暴れるのを感じながらも、意を決してまっすぐにその双眸を見つめる。
「しばらく考えさせてください」
「……わかった」
 一瞬、彼の顔に陰が落ちたような気がしたが、すぐに笑みが浮かんだ。
「いい返事を待っているから」
「善処します」
 ぺこりとお辞儀をして逃げるように小走りで自宅に入ると、閉めた扉に背をつけて胸を押さえる。早鐘のような鼓動はすこしも治まってくれなかった。


第2話 恋人の定義

「恋人って何をするんですか?」
 総司に告白された翌日、一緒に帰る彼に返事を求められて陽菜はそう尋ね返した。
 あれから一晩、ほとんど睡眠も取らずに考えてみたものの、考えれば考えるほどわからなくなった。恋人というのはどういう存在なのか、付き合うというのは何をするのか、陽菜を好きと言ったのは本気なのか。なにもわからないままでは考えがまとまるはずもない。なので、思いきって率直に疑問をぶつけてみることにしたのだ。
「別にこれといって決まっているわけじゃないよ」
 総司は嫌な顔ひとつせずに答える。
「藤沢さんが行きたいところがあれば一緒に行こう。したいことがあれば一緒にしよう。ふたりがしたいと思うことを積み重ねていくんだ。僕としては、こうやって話をしているだけでも楽しいけどね」
「それって友達とどう違うんですか?」
 陽菜には友達がいたこともないので曖昧にしかわからないが、一緒に遊んだり相談し合ったりする関係だと認識している。総司の話を聞く限りではそれと大差ないように思えた。
「友達は複数いてもいいけど、恋人は基本的にひとりだね」
「いちばん仲のいい友達が恋人ってことですか?」
「友達よりももっとずっと大切で特別なのが恋人だよ」
 そう答えながら、総司は目を細めて熱っぽく見つめてくる。陽菜の心臓はドクンと大きく脈打った。息の詰まりそうな苦しさに耐えられずに視線を外す。
「朝比奈さんは……私のことを特別だと思ってるんですか?」
「もちろん思ってるよ。藤沢さんは僕のことどう思ってる?」
「……たぶん好きだと思います。でも特別とまでは」
「今はそれでいいよ。恋人になってすこしずつ特別になれば」
 総司はとても優しい。こんな面倒くさい陽菜を否定せずに受け入れようとしてくれている。しかし、どうしてそこまでしてくれるのか理解できず戸惑いを隠せない。難しい顔をして黙りこくった陽菜に、総司はわずかに焦燥をにじませて言いつのる。
「藤沢さん、僕には藤沢さんが必要なんだ」
「わかりません。私なんかがどうして……」
「藤沢さんは可愛いよ。僕にとってはね」
「……っ!」
 動揺したせいだろうか。凍った地面で足元を滑らせて転びそうになった。が、すんでのところで隣の総司に受け止められる。そして丁寧に立たせてくれたのはいいが、いつまでも背中に手をまわしたまま放してくれない。熱っぽくもせつなげなまなざしで微笑みかけてくる。
 移植された心臓はとても丈夫なはずなのに、彼といるときだけおかしくなってしまう。きのう数日ぶりに再会してからさらに症状がひどくなった。今も心臓が飛び出しそうなほど大きく脈打っていて、とても冷静に考えられる状態ではない。
「あの……もうすこし考えさせてください」
 どうにかそれだけ告げると、彼の返事を待つことなく一目散にすぐ近くの自宅へ駆けていく。背後から陽菜を呼ぶ声が聞こえたが立ち止まりはしなかった。

 陽菜は自室のベッドに倒れ込むように横たわると、溜息をついた。
 総司のことが好きなのはきっと間違いない。けれど恋人になりたいとか付き合いたいとかは思っていない。今のようにアルバイトの帰りにすこし話ができるだけでよかった。それだけで嬉しかったのに。胸が苦しくなりこぶしで押さえながら体を丸める。
 彼はどうして恋人になることに固執しているのだろう。今の関係を継続するのではいけないのだろうか。特別だの必要だのと言われるたびに怖くなった。何ひとつ好かれる要素のない陽菜に、それほどまでの気持ちを向けているなんて信じられない。
 そうか——。
 彼の気持ちが信じられないから怖くて逃げ腰になっていたのかもしれない。恋人になることにどれほどの価値があるのかは正直わからない。けれど、彼が真摯に話してくれているのに逃げているだけではいけないと思う。陽菜も真摯に彼と向き合って何らかの結論を出さなければ。静かに思考をめぐらせながら、心臓を宥めるようにゆっくりと呼吸をして目を閉じた。

 その翌日。
 アルバイトを終えた陽菜が裏口から外に出ると、小雪のちらつく中に総司が傘を差して立っていた。陽菜と目が合うとすこし気まずそうな微笑を浮かべ、無言で傘を差し掛けてきた。折りたたみ傘を持っていたのでどうしようか悩んだが、その傘に入れてもらうことにした。
「藤沢さんに嫌われたんじゃないかと心配してたけど、一緒に帰ってくれるってことは大丈夫なんだよね?」
「はい、きのうはすみませんでした……びっくりしてしまって……」
 動揺したとはいえ置き去りにして逃げた陽菜が悪い。申し訳なく思いながら答えると、彼はよかったと安堵の息をついて笑みを浮かべた。
「それで、僕と付き合うことは考えてくれた? あ、急かしているわけじゃないからゆっくり考えてくれていいんだけど……告白の返事を待っているっていうのはどうにも緊張して落ち着かなくて。判決を待つ被告人の気分だよ」
 そう言って苦笑する彼を見て、陽菜は驚いた。
「すみません」
「いや、藤沢さんを責めているわけじゃないよ」
 余裕があるように見えていたので、緊張しながら返事を待っているなど思いもしなかった。いつまでも彼の優しさに甘えて引き延ばすわけにはいかない。
「私の話、聞いてくれますか?」
 意を決してそう言うと、信号もない路地の交差点の片隅で静かに足を止めた。傘を差していた彼も陽菜に合わせて足を止める。話して、と優しく染み入るような声で促されて、ゆっくりと呼吸をしてから言葉を継いだ。
「私は生まれつき心臓に欠陥があって、成人までは生きられないと言われていました。でも一年半前に心臓移植の手術を受けて私の命は繋がりました。今ではもう普通に日常生活が送れるようになっています。ただ幼いころからほとんど入院生活で、学校にもまともに通えていません。高校進学もあきらめたので中卒です。何も知らないし友達のひとりもいません。無表情で笑うことさえできません。それと胸に大きな手術跡が残っています。だから、私は朝比奈さんの特別になれるような人間じゃ……」
「そんなことを気にしていたの?」
 どこか不機嫌さを感じさせる低く抑えた声に話を遮られた。顔を上げると、彼は真剣な面持ちでまっすぐ陽菜を見つめていた。思わず息を飲む。
「僕にとってはそんなの全然問題じゃないよ。藤沢さんは藤沢さんだ」
「でも、私には特別に思われるようなところは何もありません」
「真面目で一生懸命で実直なところも、落ち着いているところも、たまにはにかんでくれるところも、僕が見つめるだけで真っ赤になるところも、すべて愛おしくて特別だよ……藤沢さんが嫌じゃないならお願いだ、恋人になって。これからもずっと僕の隣にいて」
 ひたむきに、一心不乱に、縋るように、前のめりで懇願してくる。きのうまでとはまるで別人のように感情的だ。あの大人の余裕はどこへいってしまったのだろう。しかし、だからこそ本気だということが伝わってきて、こそばゆいようなあたたかいような気持ちになる。
「無知でご面倒をおかけすると思いますが、よろしくお願いします」
 覚悟は決まった。彼に向きなおり、その揺らいだ双眸を瞬ぎもせず見つめながら告げる。昨晩、足りない頭ではあるが自分なりに考えて決めたのだ。懸念をすべて話して、それでも迷わず陽菜を望んでくれるなら了承しようと。
 彼はパァッと顔をかがやかせ、差していた紺色の傘を放り出して陽菜を抱きしめる。
「ありがとう! ずっと……ずっと大切にするから……」
 その声はかすかに震えていた。真剣に思ってくれているのだと感じて胸が熱くなる。はらはらと舞い落ちる小雪が頬に触れて融けた。
「ねえ、ハルって呼んでいいかな? 陽菜だからハル」
 思いもしなかったことを提案されて目をぱちくりさせる。生まれてこの方、愛称で呼ばれたことなど一度もない。藤沢さん、陽菜、陽菜ちゃんのいずれかだ。そもそも家族、医師、看護師以外から名前を呼ばれることは滅多になかった。総司と出会うまでは。
「ダメ?」
「いえ、朝比奈さんがそう呼びたいのであれば」
 むしろそう呼んでもらえると嬉しいかもしれない。それが彼だけの特別な呼び方になるのだ。
「僕のことは総司って呼んで」
「総司、さん……?」
 おずおずとそう呼ぶと、陽菜を抱きしめる彼の腕にぎゅっと力がこめられた。小柄な陽菜の体は地面から浮きそうになり、爪先立ちで彼のジャケットにしがみつく。
「心臓、ちゃんと動いてる。元気のいい鼓動だね」
 感慨深げにそう言われて、ふいに目の奥が熱くなりじわりと潤むのを感じた。この心臓のおかげで信じがたい出来事を体験している。あれほど生きることが不安で憂鬱で仕方なかったのに、彼を出会ってすこしずつ景色が色づいて見えるようになった。こんなにも感情を揺さぶられるようになった。
「心臓をくれた人に初めて感謝しています」
「ちゃんと生きててくれた……ハル……」
 どうにか絞り出したようなその声も、陽菜を抱きしめている大きな体も、はっきりとわかるくらい震えていた。そして触れ合う頬に何かぬるいものが伝うのを感じた。
 涙——?
 陽菜のものではないので彼が泣いているとしか考えられない。そのうち必死に抑えたかすかな嗚咽も聞こえてきた。どうしてここまでと思いながらもドクンと鼓動が跳ねるのを感じた。しかし——その涙の本当の意味を、このときの陽菜はまだ知るよしもなかった。


第3話 彼の敷いたレール

 総司と付き合うようになって一年。
 陽菜のアルバイトが休みの日には必ずといっていいほど二人で会っていた。美術館や博物館などを見てまわったり、映画や芝居を観に行ったり、ショッピングセンターに出かけたり、あるいは彼のアパートで何をするでもなく過ごしたり。陽菜にとってはすべてが未知のもので世界が広がるように感じた。
 総司は何も知らない陽菜を決して馬鹿にはしなかった。どんなことでも呆れることなく丁寧に教えてくれる。義務感から仕方なくという感じではない。彼自身も教えることを楽しんでいるように見えた。この人は絶対に陽菜を傷つけない。そう信じられたから安心して一緒にいられた。
 そうこうするうちに、いつしか自然と笑えるようになっていた。あれほど表情が動かなかったのが嘘のようだ。今でも愛想笑いは苦手だが、それでもアルバイト先の洋菓子店では随分よくなったと褒められた。表情にも声にも生気が出てきて明るくなったと。すべて総司のおかげである。

「クリスマスの次の日、一泊できないかな?」
 総司と食事に出かけた帰りの車中で、ふいにそう尋ねられた。
 アルバイト先が洋菓子店なのでクリスマスイブとクリスマスは休めないが、翌日以降ならたぶん問題はない。でも一泊というのはどういうことだろう。こんなことを言われたのは初めてで戸惑っていると、彼は赤信号で車を止め、ハンドルを握ったまま助手席の陽菜に目を向けて微笑む。
「神戸にイルミネーションを見に行こうかなって。遠いから日帰りは難しいんだ」
 陽菜は目を大きくした。昨年、雑誌で見て興味を持ったことを覚えてくれていたのだ。確かにいつか二人で見に行こうとは話していたものの、夢物語だと話半分に聞いていたのに。
「楽しみです」
「よかった」
 ちょうど青信号になり、彼はニコッと微笑んで車をゆっくりと発進させた。
 その横顔を密かに見つめながら、陽菜はワイパーの規則的な音と鼓動が同調していくのを感じた。
 総司と付き合うようになり、あまり迷惑を掛けないようにと恋愛小説などで勉強したので、恋人どうしがどういうことをするのかはわかっているつもりである。けれど総司とのあいだにはいまだに何もない。抱きしめられて鼓動を確かめられることはよくあるが、キスも、その先も、しようとする気配すらない。
 友人のいない陽菜には何が一般的なのかよくわからない。ただ恋愛小説ではたいていの場合もっと展開が速いので、焦っているわけではないが、幾何かの不安を感じずにはいられなかった。何も知らなさそうな陽菜に遠慮をしているのではないか、陽菜を怖がらせないために手を出さないのではないか、あるいは貧相な顔と体のせいでそんな気も起きないのではないか、と。だが一泊するということは——。
「あー……ハルの嫌がることはしないから安心して?」
 じっと横目で総司を見つめたまま思案していると、彼はきまりが悪そうに言い添えた。嫌がることというのが何を指しているかはだいたいわかる。けれど。
「私、嫌がったりなんかしません」
 めずらしく気色ばんで言い返した。運転席の彼がはじかれたようにこちらに振り向いたが、すぐに前を向いて運転を続ける。しかしその表情には戸惑いの色が浮かんでいた。陽菜は急に恥ずかしくなり顔が熱くなるのを感じた。
「いえ、あの、深い意味は……」
「ハル、わかって言ってる?」
「……はい」
 思いのほか真剣な声で問われて嘘はつけなかった。彼がどう思っているのかはわからないが、陽菜は何も知らない純粋無垢な子供ではない。もっとも恋愛小説程度の曖昧な知識に過ぎないのだが。
「じゃあ、そのつもりでいるから」
 再び赤信号で止まると、彼はそう言ってにっこりと満面の笑みを浮かべた。
 陽菜は火を噴きそうそうなほど顔が熱くなり、内心でどうしようと狼狽えながらもこくりと頷いてしまう。鼓動が早鐘のように打ち始めたが、だからといって後悔する気持ちはすこしも湧いてこなかった。

 クリスマスの翌日。
 陽菜は総司とともに彼の運転する車で神戸へ向かった。高速道路に入るのはこれが初めてである。総司は制限速度を守って安全運転してくれたが、周囲の車が爆走していくのがすこし怖かった。顔をこわばらせていると、何度もパーキングエリアやサービスエリアに立ち寄ってくれた。
 昼過ぎに神戸に着くと、まずは予約したホテルに向かおうという話になった。チェックインして駐車場に車を置いてくるという。しかし、宿泊予定のホテルを前にして陽菜は唖然としてしまう。
「すごい……」
「いや、建物が大きいだけだよ」
 彼は平然とそう言うものの、田舎者の陽菜はこんなスケールの建物など見たことがなかった。大きさもさることながら個性的な形もすごい。大きな建物はみんな四角いものだと思い込んでいたが、このホテルはなだらかな曲面を描いている。絵葉書みたいな港の風景とも見事に調和していた。
 彼は建物が大きいだけなどと言っていたが中もすごかった。ロビーやフロントも予約した部屋も立派すぎてうろたえる。ベッドなどいったいどちらが縦なのかわからない。五人くらい並んで寝られるのではないだろうか。本当に二人用なのだろうか。すごいを通り越してもはや意味がわからない。
「おいで、いい景色が見られるよ」
 いつのまにか荷物を置いてバルコニーに出ていた総司に手招きされ、陽菜も鞄を下ろしてあとを追う。外に出ると冷たい潮風が吹き付けてきたが、火照った頬には心地良く感じられた。彼に手を取られながらあたりに目を向けると、角の部屋らしく広範囲に海や港町が見渡せた。ガイドブックに載っていた観覧車や赤いタワーも見える。
「夜になるとまたきれいだろうね」
「楽しみです」
 そう言って二人で微笑み合い、しばらく風景を楽しんでから部屋に戻った。

 イルミネーションが始まるまでは時間があるので、観光に出かけた。
 まず、陽菜がガイドブックを見て興味を示した異人館をめぐることになった。タクシーで近辺まで乗り付けると有名な洋館を見て歩く。物語の中に出てくるような建物にそこから見える風景。非現実的な異国情緒を感じさせるそれらに陽菜は心が躍るのを感じた。
 坂が多かったので総司は心配してくれたが、すこし疲れただけでなんてことはない。適度に休憩を挟んでくれたのもよかったのだろう。
 異人館近辺の洋食店ですこし早めの夕食をとってから、イルミネーションを見に向かった。到着するとすでにライトアップは始まっていた。ちょうど日が沈んだころだが、すこし出遅れたようであたりは人であふれかえっている。総司に庇われながら歩いても小柄な陽菜は群れに埋もれてしまう。肝心のイルミネーションを見るのも一苦労だった。
 それでも光の宮殿のようなイルミネーションは壮観だった。写真で見るのとその中に入るのとでは全然違う。人混みに揉まれてゆっくりと見ることはできなかったが、それでも行ってよかったと心から思えた。

「こっちのイルミネーションはゆっくり見られるよ」
 ホテルに戻ると、部屋からはライトアップされたタワーや観覧車など港町の夜景が見えて、これはこれできれいだった。何より大勢の人に揉まれることなく二人きりで見られるのがありがたい。バルコニーにはティーテーブルも用意されていたが、真冬の夜にここでくつろぐのは厳しいだろう。
「ハル」
 ふいに熱をはらんだ甘い声で呼ばれる。ドキリとして振り向くと、彼の大きな手で優しく頬を包み込まれた。夜風で冷えた肌があたためられていく。手すりを掴んだ陽菜の左手に力がこもった。
「好きだよ、ハル」
「私も好きです」
 総司はどこか切なげに笑みを浮かべて、ゆっくりと身を屈めながら顔を近づけてきた。陽菜は息を詰めて震えるまぶたを閉じる。まもなくあたたかくてやわらかいものが唇にふわりと触れた。心臓が壊れそうなほど強く収縮し、体中がドクドクと脈打つように感じる。
 やがて静かに唇が離れていった。そろりとまぶたを上げたとき、正面の彼はくすりと笑っていた。
「大丈夫かなぁ」
「だ、大丈夫です」
 カアッと頬を赤らめながらむきになって言い返すと、笑顔のままの彼にいきなり横抱きにされた。足が地面を離れて体が宙に浮く感覚に、思わず身をすくめる。しかしながら彼は構うことなく夜景に背を向けて、空調のきいたあたたかい部屋へと戻っていった。

「あの、言っておきたいことがあって」
 ベッドに横たえられて何度も口づけられたあと、陽菜はセーターに掛けられた手をあわてて押しとどめて言う。彼は不思議そうな顔をしながらも素直に耳を傾けてくれた。
「私の胸には手術跡が残っています。だから、気になるのなら上の服はそのままでも……」
 付き合う前に手術跡が残っていることは告げてある。それでもいいと言ってくれた彼の気持ちを疑うわけではないが、実際に目にするとあまり気持ちのいいものではないだろう。陽菜自身ですら、いまだに傷を見るたびすこし気持ちが沈むくらいなのだから。
 しかし、彼は愛おしげに目を細めて微笑んだ。
「僕は気にしないよ。そのおかげでハルが生きられたんだから、むしろ感謝しているくらい」
 そう言い、抵抗をやめた陽菜の服をゆるゆると脱がせていく。やがて病的なまでに白い上半身をあらわにされると、寒くもないのにふるりと震えた。彼の視線はじっと中心の傷痕に注がれている。いたたまれずにふいと横を向いて目をつむった。
「触れても大丈夫?」
「え……はい……」
 もう完全にくっついているので傷口が開く心配はない。もちろん痛みもない。だからといってわざわざ触れるつもりなのだろうかと戸惑っていると、彼はそこに唇を寄せて慈しむように這わせ始めた。ぞくぞくとした何かが体中を駆けめぐっていく。
「ハルの鼓動が聞こえる」
 総司はささやかな胸に頬を寄せて喜びをにじませながら言った。羞恥やら感慨やら雑多な感情が綯い交ぜになり、陽菜はわけもわからず目が潤む。
「今にも心臓が爆発しそうです」
「丈夫な心臓だから心配ないよ」
 総司は胸に顔を埋めたままくすりと笑ってそう言うと、上体を起こし、頭の両横に手をついて陽菜を真上から覗き込む。そのときには凛とした真剣な面持ちになっていた。
「ずっと、ずっと僕のものにしたかった」
「私も、そうなりたいと願っていました」
「ハル……」
 彼はこころなしか目を潤ませて微笑んだ。再び傷痕に唇を寄せて強く吸い上げ、そして——。

 翌朝。
 目が覚めると、広いベッドの上で背後から総司に抱きしめられていた。ふたりとも裸のままだ。いつどうやって眠りについたのか記憶にないが、彼とのあいだに起きたことはだいたい覚えている。ところどころ記憶が途切れているのは意識を飛ばしたからだろう。
 あらためて思い返すと恥ずかしさに身悶えしたくなる。現実は恋愛小説よりもずっと生々しい。体のあらゆるところに指や舌で与えられた快感、混じり合う唾液や汗、知らなかった独特の匂い、初めて目にする総司のすこし苦しげな表情、そして誰にも見せたことすらない場所に迎え入れた痛み——すべてが陽菜に刻み込まれている。
 もちろん後悔なんてしていない。どうにかなってしまいそうなほど恥ずかしかったが、それ以上に幸せを感じることができた。彼と深いところでつながれたことがとても嬉しかった。取り繕うことも忘れて無我夢中で抱き合ったことで、いままで以上に彼との距離が近くなったのではないかと思う。
「ん……ハル、起きた?」
 彼の腕がすこし窮屈で身じろぎしていると、背後から眠そうな声が聞こえてきた。
「おはようございます」
「おはよう」
 陽菜にまわされた腕に力がこもった。彼の素肌が背中に密着する。
「やっとひとつになれたね、ハル」
 耳元で囁かれてカッと全身が火を噴きそうなほど熱くなる。顔もさぞかし真っ赤になっていることだろう。ひとりで思い返しているだけでも恥ずかしかったのに、彼にこんなことを言われたらどうしていいかわからない。上掛けをひっかぶり顔を隠そうとした、そのとき。
「……え?」
 自分の薬指に見知らぬ指輪がはまっていることに気が付いた。細いリングの中央には繊細にカットされた透明な宝石が輝き、その両脇にピンクと透明の小さな宝石が二粒ずつ寄り添う、シンプルながらも可愛らしいデザインである。きのうは見ていないので寝ているあいだに彼がはめたとしか考えられない。クリスマスプレゼントだろうかと目をぱちくりさせていると。
「ハル、一生大切にするから一緒に東京へ来て」
「え、あの……どういうことですか?」
 話が掴めない。もぞもぞと彼の方に向きなおると、彼は目を細めて愛おしげに微笑んでいた。
「僕と結婚して」
「?!」
 驚きのあまり目を見開きはじかれたように跳ね起きた。まさか、これ婚約指輪? あらわになった胸元をあわてて上掛けで隠しながら、口をパクパクさせて左手の指輪を掲げて見せる。彼は横になったまま魅惑的な笑みを浮かべると、ゆっくりと体を起こして陽菜と向かい合った。
「ハルは朝比奈グループって知ってる?」
「聞いたことは……えっ、総司さんて……」
 絶句した陽菜に、彼は苦笑して肩をすくめる。
「僕は気楽な三男坊だから後は継がないよ。ただ、そろそろ帰ってこいって言われてるんだ。ふらふらしてないで仕事を手伝えってだけの話で、同居を望まれてるわけじゃないから、結婚したらふたりきりでどこかに住もう。病院もちゃんと東京で診てもらえるように手配する」
「え……あの……」
 思考が追いつかずなかなか言葉が出てこないが、とても頷ける話ではない。
「無理、です」
「大丈夫だよ」
 そう言われても、陽菜には根拠のないただの慰めにしか聞こえなかった。胸元でギュッと上掛けを握りしめる。ふいに左手の薬指にはめられた分不相応な指輪が目について、胸に刺すような痛みが走った。
「私、学歴は中卒だし、体も丈夫じゃないし、何もできないし、何も知らないし、家は貧乏だし、美人でもないし……立派な家にはふさわしくない人間です」
 自分を卑下したくはないが客観的事実だ。深くうつむいて指輪を外そうとすると、その手を優しく押しとどめられた。
「家とは関わらなくていい。僕といてくれるだけでいいんだ」
「総司さんが良くても、ご両親がお許しにならないと思います」
「放蕩息子の僕には何も期待なんてしてないから平気だよ」
 総司はあっけらかんと言うが、これだけ容姿端麗で頭脳明晰な人に何も期待しないなどありえるのだろうか。人当たりも良く、教えるのも上手く、段取りも完璧で、きっと仕事でも有能に違いないのに。怪訝に思っていると、顔を曇らせた彼にしがみつくように抱きしめられた。
「お願い、ハル……僕と一緒に幸せになろう? 僕を信じて?」
 それでもやはり総司の家族が許してくれるとは思えない。関わらないですむとも思えない。家が釣り合わないというのももちろんあるが、それ以前に陽菜自身に問題が多すぎる。誇れるところは何ひとつなく欠点しかないのだ。挨拶に行ったら面と向かって詰られるかもしれない。ひとい言葉で非難されるかもしれない。ずたずたに精神を叩きのめされて総司からも捨てられるかもしれない。
 ——そうか、怖くて逃げているんだ。
 自分の心理状態を自覚すると、急に視野が大きく広がったように感じた。
 考えてみれば、まだ誰に反対されたわけでもないのに、勝手な思い込みだけであきらめるなんて愚かしい。心臓移植を受ける前のあのころは死ぬことさえ怖くなかったのに、総司に守られているうちにすっかり臆病になってしまった。もともとなかった命だと思えば何にでも立ち向かえるはずだ。陽菜にだって総司と幸せになりたい気持ちはあるのだから。
「わかりました。総司さんを信じてみます」
「ありがとう、ハル……!」
 総司は満面の笑みで喜びをあらわにしながらそう言うと、勢いよく陽菜を抱きしめ直した。陽菜もそっと背中に手をまわす。二人の心音がトクトクと心地良く融け合い、知らず知らず表情がやわらいでいくのを感じて吐息を落とした。


第4話 もうひとりのハル

「陽菜さんとは、結婚を前提にお付き合いさせていただいています」
 神戸旅行から帰ってきた翌々日、総司はスーツを身につけて藤沢家へ挨拶に来た。彼のスーツ姿を見たのは陽菜も初めてだ。いつものカジュアルな格好も似合っているが、スーツだと凛としていかにも仕事ができそうに見える。和室に案内すると、彼は向かいに座る陽菜の両親に目を向けて、臆することなく堂々と交際の事実を告げた。
 しかし、両親に驚く様子は見られなかった。
 母親によれば、総司のことは町内の主婦たちのあいだで謎のイケメンとしてよく話題にのぼっていたらしい。そして陽菜と付き合っているのではないかとも噂されていたという。寂れた田舎町なので若者がすくなく、それゆえ彼のような目立つ容姿の男性がいれば否応なく注目を集めてしまう。井戸端会議の餌食にされるのも無理からぬことだろう。
 それでもさすがに総司の家のことまでは知らなかったようだ。もとより二人の交際や結婚に反対する気配はなかったが、朝比奈の話を聞いて目を丸くすると、急にひれ伏さんばかりの低姿勢で陽菜を差し出そうとする。やっと陽菜を厄介払いできると思ったのか、あるいは朝比奈に何か期待でもしているのか——どちらにしても浅ましくて嫌になる。
 反対されなくて良かった、と総司は帰りの道すがら安堵したように言っていたが、陽菜が両親の態度を詫びると曖昧に苦笑していた。二人とも世間体を気にする程度の良識はあるはずなので、あからさまに何かを要求することはないだろうが、たとえそんなことがあっても全力で突っぱねようと心に決める。

 年が明けて、今度は朝比奈家へと挨拶に向かった。
 一日早く東京へ行ってホテルに泊まり、翌朝、総司の予約した美容室で準備をするという段取りだ。髪は毛先を整えてふんわりとブローし、メイクをしてもらう。これまで一度もメイクの経験がなかったので緊張した。ナチュラルメイクなのでそれほど変わらないという話だったが、鏡の中の自分はいつもよりだいぶくっきりとして見えた。
 衣装やバッグなどはすべて総司が用意してくれた。気は引けるが、陽菜はろくな服を持っていないしセンスもないので、素直に彼の言うとおりにした方がいいのだろう。彼の両親に悪い印象を与えるわけにはいかないのだ。値段は聞いていないが、どれも陽菜の所有するものとは比較にならないくらい上質だということは、これまでにないなめらかな手触りや着心地などで何となくわかった。
 朝比奈家は想像のはるかに上をいく立派な屋敷だった。見たところわりと新しそうだが、門構えや塀も含めて由緒正しい和風建築といった趣である。応接間から見える庭園には池まであり、大きな錦鯉が何匹か優雅に泳いでいるのが見えた。
 総司があらかじめ心臓のことなどすべて話しておいたというので、どういう反応をされるか心配でたまらなかったが、意外にも彼の両親は難色を示すどころか手放しで歓迎してくれた。それも度が過ぎるくらいに。どうか息子をよろしくお願いします、と目元をハンカチで抑えながら頭を下げられ、安堵を通り越して困惑してしまったくらいだ。
 帰りのタクシーでそのことを総司に告げると、だから放蕩息子だって言っただろう? といたずらっぽく肩をすくめて返された。大学を卒業しても定職に就こうとせず、地方に引っ越して好き勝手やっていたので、そんな駄目息子と結婚してくれる女性がいてほっとしたのだろうと。そういうものなのかな、と陽菜はかすかな違和感を覚えながらも曖昧に納得した。

 二人で話し合い、三月に結婚して東京へ引っ越すことに決めた。
 四月から総司が朝比奈の関連会社に入社することになったので、それに間に合わせるためである。急なことだが、住居の準備や手続きなどはほとんど総司がしてくれるという。結婚式は生活が落ち着いてから考えようということになった。
 陽菜は一年半ほどアルバイトとして勤めた洋菓子店を辞めた。病気療養中だった奥さんがもう普通に働けるようになっているので、陽菜が辞めても支障はない。結婚して東京に転居する旨を伝えると、二人ともまるで我がことのように喜んでくれた。アルバイト最後の日には陽菜のために特別にケーキまで作ってくれた。
 東京では働いても働かなくてもどちらでもいいと総司は言ってくれた。何か目指したいものがあるならそれを目指せばいい。勉強したいのであれば高校に通ってもいいし、高卒認定試験を受けてもいい。もちろん専業主婦でも一向に構わないと。陽菜自身まだどうしたいのかわかっていないので、これから考えていくつもりだ。

 そうして怒濤の一月が過ぎ、いっそう寒さが厳しくなったころ。
 家で引っ越しの準備をしていると見知らぬ女性が陽菜を訪ねてきた。同年齢かすこし上くらいだろうか。女性にしては背が高めで、手足も長くすらりとしており、スリムなジーンズがよく似合っていた。髪はショートカットだが目がぱっちりと大きく、ボーイッシュな中に女性らしさも感じられる。端的にいえば美人だ。
 おそらく地元の人間ではないだろう。そんな人がどうして陽菜を訪ねてくるのか心当たりはない。考えられるとすれば——脳裏に浮かんだ嫌な推測に鼓動が速くなるのを感じ、玄関先で会釈をしながら怪訝なまなざしを送る。彼女は臆することなく陽菜を見つめ返して一礼した。
「突然お伺いして申し訳ありません。私は朝比奈総司の知り合いで、清水咲子(しみずさきこ)というものです」
「…………」
 嫌な推測は当たっていた。だが総司とどういう関係なのかはまだわからない。二股をかけるような人ではないと信じている。ただ、元婚約者や元恋人ということは十分に考えられる。彼は別れたつもりでも、彼女の方はそう思っていなかったという可能性もある。
「すこしお話をさせていただけますか?」
「はい……どうぞ、お上がりください」
 陽菜は来客用のスリッパを出して彼女を招き入れた。
 今は両親ともに不在だ。彼女が危害を加えてくるような人には見えないが、万が一ということもある。彼女を和室に通したあと、台所で湯を沸かして来客用のお茶を淹れる準備をしつつ、そっと自室に戻って携帯電話をポケットに忍ばせた。

 お茶を出してどうぞと勧めると、彼女は姿勢を正したまま一口飲んで吐息を落とした。
「知り合いでもないのにいきなり家に押しかけるだなんて非常識よね。ずいぶん怖がらせてしまったみたいでごめんなさい。どうやって話を聞いてもらおうか考えたけど、あまり時間もなかったしほかに方法が思いつかなかったの。でも、私はあなたの味方のつもりだから安心して」
 口調と表情がすこし砕けた。
 しかしながらそのことがよけいに不安を煽る。自分から味方だと近づいてくる人は信用するな、と何かの映画でも言っていた。不安を抱えたまま不自然に口を閉ざしていると、彼女は軽く肩をすくめて言葉を継ぐ。
「心配しなくても総司と恋愛関係なんて一切ないわ。ただの幼なじみよ」
「幼なじみ……」
「家が近所でね。幼稚園から高校までずっと一緒だったの」
 本当に陽菜の想像するような関係ではなかったのだろうか。ただの幼なじみという話を信じていいのかわからない。ただ、どういうわけか伏せられた彼女の瞳にはわずかな陰りが見えた。それがこれからの話を暗示しているようで無意識に緊張が高まる。
「それで、幼なじみの方がどういったご用件でしょうか?」
「あなた、二年半前の八月十四日に心臓移植をしたのよね? 」
「そうですけど……」
 総司の幼なじみなら知っていても不思議ではない。総司本人から聞いたのかもしれないし、あるいは実家の方から聞いたのかもしれない。けれど、日付まで持ち出してくるのは何か不自然な気がした。訝しみながら答えを求めるようにじっと見つめると、彼女は表情を硬くして口を開く。
「その心臓、私たちのもうひとりの幼なじみのものだと思うわ」
「えっ?」
「総司はその心臓を追ってあなたに近づいたのよ、多分ね」
 何を言っているのかにわかには理解できなかった。心臓って移植されたこの心臓? 総司さんの幼なじみ? 追うってどういうこと? さまざまな疑問が矢継ぎ早に頭を駆けめぐるが、なぜだかまともに思考が働かない。不穏な胸騒ぎだけが勝手に大きくなっていく。
「総司はその幼なじみに異常なくらい執着していたの。私たちはハルって呼んでた。逢坂遙人(おうさかはると)だからハル。あなた、総司からハルって呼ばれてるんでしょう?」
 まさか——すうっと血の気が引いていくのを感じた。
「総司はね、ハルに彼女ができるたびに誘惑して奪ってすぐに捨ててた。ハルに彼女がいるのが許せなかったみたい。そういう総司の気持ちにハルは気付いてなかったけど、ずっと二人を見ていた私にはわかったわ。大学生になってからはふたりと疎遠になっていたから、何があったかは知らないけど……ハルは総司と喧嘩別れしたその帰りに、交通事故で亡くなったって」
 陽菜はただ呆然と聞いていた。心臓は何かを訴えかけるようにドクドクと激しく脈打っている。全身から嫌な汗がじわじわとにじみ出てくるが、指先や足先は次第に冷たくなっていく。息をしているはずなのに息苦しくてたまらない。
「私、ハルのことが好きだったんだ」
 彼女は沈黙の中にぽつりと言葉を落とした。片思いだけどね、と曖昧に微苦笑を浮かべて付言すると、すぐに真面目な面持ちになって話を続ける。
「だからハルの心臓をもらって元気になったあなたには、幸せになってほしいの。そのためにも事実だけは伝えておきたかった。総司があなたをどう思っているかはわからないけど、結婚してから後悔することのないように」
「……ありがとうございます、清水さん」
 頭の中が気持ち悪いくらいぐるぐるとまわり、いまにも倒れそうになりながら、それでもなんとか背筋を伸ばしたまま応対する。どういうわけか、自分が発したはずの声がやけに遠くに聞こえた気がした。

 その日の夜、駅前の喫茶店に総司を呼び出した。陽菜から呼び出すということはこれまで一度もなく、彼は不思議そうにしていたが、それでもすぐにいつもの笑みを浮かべて来てくれた。先に来ていた陽菜の前に座ると、メニューと水を持ってきた店員にホットコーヒーを注文する。
「どうしたの? 何かあった?」
 顔をこわばらせる陽菜を覗き込みながら心配そうに尋ねてくる。いつもどおりの優しい総司だ。けれど——陽菜は意を決して彼を真正面から見つめ返すと、キュッと引きむすんでいた小さなくちびるを開き、静かに告げる。
「婚約はなかったことにしてください」
「えっ……?!」
「何もかも白紙に戻したいの」
 総司は唖然としたが、陽菜の薬指に婚約指輪がはめられていないことに気付くと、すぐに険しいくらい真剣な面持ちになり思考をめぐらせ始める。それでも心当たりはなかったようだ。困惑したように曖昧に顔を曇らせて小首を傾げる。
「僕、何か怒らせるようなことした?」
「清水咲子さんに会いました」
 その名前を耳にした瞬間、彼はハッと目を見開いて息を飲んだ。陽菜はすかさず畳みかける。
「あなたが求めていたのは私じゃない」
「ちょ……」
「逢坂遙人さんなんですね」
「ちょっと待って、ハル」
「ハルって呼ばないで!!!」
 これほど大きな声を出したのは生まれて初めてかもしれない。はぁはぁと肩で息をしながら顔を上げて強気に彼を見据える。しかし、その瞳に熱い涙がにじんで視界がぐにゃりと歪んだ。
「咲子が何を言ったか知らないけど、あいつは僕を恨んでるから」
「私だって無条件で見ず知らずの人の言うことを信じたりはしません。でも心当たりがありすぎました。総司さんは逢坂遙人さんの心臓を追って私にたどりついた。逢坂遙人さんの身代わりとして私を手に入れようとした。私をハルと呼ぶのも彼と重ねるため。私の鼓動に固執していたのも彼を感じるため……違うのなら否定してください」
「…………」
 彼はきまり悪そうに視線をそらした。
 嘘でもいいから否定してくれればよかったのに。騙してくれればよかったのに。逢坂遙人とは関係なく藤沢陽菜が好きなんだ、そう言ってくれれば愚かな私は信じたかもしれないのに。涙がこぼれ、頬を伝い落ちるのを感じながら自嘲の笑みを漏らす。
「彼の心臓を移植していなかったら、私のことなんて眼中にもなかったでしょうね」
「ハルの心臓で生きているのが今のハルだろう? そのハルを好きになったんじゃいけないのか?」
 まるで開き直ったかのような言い草。やはり彼が求めていたのは逢坂遙人だったんだ。私じゃないんだ——ずっと大切にされて愛されていると思っていたのに。くやしくて、悲しくて、情けなくて、みっともなくて、腹立たしくて、頭が変になりそうだ。
「苦労して探し出して何年もかけてようやく手に入れたんだ。もう二度と手放すつもりはない。ずっと僕のそばにいてくれるって約束したよね? ハルの心臓だって僕とひとつになれて喜んでたじゃないか。一生大切にするから僕だけのものになってよ、ハル」
「やめて!」
 勝手なことを言いながら前のめりに覗き込んでくる彼に恐怖を感じ、身をすくめて叫び声を上げた。体は小刻みに震えている。それでも濡れたままの瞳で気丈に彼を見据え、冷たくなった両手を自分の胸元に置いて言う。
「私を自由にしてくれないのなら、この心臓を刺して死にます」
「ハ、ル……」
 彼は伸ばしかけた手を止めて愕然とした表情で固まった。その顔からみるみる血の気が引いていくのがわかる。そんなにもこの心臓が大切なのかと、感情的になっていた陽菜の頭は急速に冷えていった。
「私をすこしでも好きでいてくれたのなら、もうこれ以上苦しめないで」
 鼻をすすり静かにそう告げると、婚約指輪の箱と紅茶の代金をテーブルに置き、他に客のいない閑散とした喫茶店をあとにした。コートを脇に抱えたまま北風の吹き荒れる闇夜を走りだす。身を切るような猛烈な寒さに凍りつきそうになりながら、それでも心臓は存在を主張するかのように熱く脈動していた。



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