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はじめに

 2002年8月よりメールマガジン「遥かなり台湾」を配信し続けて既に丸13年になりました。この間ほぼ2年に一冊の割合で冊子にまとめ、今回で第6冊目となりました。この本書には主に2013年から2015年の最近までに配信したものから抜粋したものや未公表分も含めてまとめてみました。

 

本書は、日台双方で話題となった映画「KANO」にまつわる話に始まって、日台交流の話や日台の絆をテーマとした話を中心にまとめたつもりです。日本人にとって知られざる台湾のことなどが多方面にわたって綴られています。でも重度身障者の話(P110)は日台交流には直接かかわりありませんが、台湾にもこのような体のハンディを物とせず、実業家として成功の道を歩まれた人がいることに感動させられます。五体満足のぼくたちは、もっと努力しなければならないと思うのはぼくだけでしょうか。

この話のある第五章は台南に住んでいる伝田晴久氏のご好意により、氏の配信している「台湾通信」の中の文章を転載させていただきました。

また特に、今年は終戦から70年と言う節目の年であることから、2006年9月に配信した記事「日本は敗戦国にあらず、勝戦国である」を、本文の最後に今回特集として再び取り上げました。この文章の作者は昭和61年(1931)前後闘病生活しながら『日本を憶う』の原稿をしたためていた故水方人子(ひとし)氏で、自分の人生を回顧し次のように記していました。

 

「私が生まれた時は日本人であった。還暦を過ぎて人生を回顧するのに、今は日本人でなくなっても、日本人であった頃を空白にする事は出来ない。」と

その彼は「日本人が日本にいることだけでは知ることのできない、感じることの出来ない発見するかもしれない」と戦後40年を経た今となって正真正銘の感覚を吐露したいと言って前述の「日本は敗戦国にあらず」を書き記したのです。この文章を改めて読み返してみると「日本人よ。もっとしっかりせい。」とあの世からメッセージを送ってくれているような気がするのです。

 末尾の頁には、特別に湾生の中田芳子さんが、座右の銘を揮亳して下さいました。

「よき友、よき本、よき体験は無上の財産である」これは誰にでも共通する思いでは

ないでしょうか。 

 

寄稿いただいた皆さん、転載するにあたりご協力して下さった皆様方に、紙上をお借りして、深く感謝の意を表します。

今回は電子書籍に初めての挑戦で、本文の中には、メルマガで紹介した記事を編集の都合上、一部割愛または加筆、修正した箇所がありますのでご了承ください。 

皆様方からの忌憚のないご感想・ご意見をお待ちしております。

 

                                                                        2015年9月初秋

 

 

 

 

 

 

 


映画「KANO」

映画「KANO」                        2013/09/16

映画「KANO」が来年の春節(旧正月)に台湾で上映されることになったことは台湾通の皆さんもご存じかと思います。

KANO』は、『海角七号』(2008年)、『セデック・バレ』(2011年)など、日本統治時代の台湾を題材に話題作を生み出し続けてきた魏徳聖監督が10年前から温め続けてきた、嘉義農林学校(=現・嘉義大学)野球部の栄光のストーリー。

台湾人・日本人・原住民族の混成チームが、苦難を乗り越え心をひとつに甲子園を目指し、1931年の第17回大会で初出場ながら決勝戦に進出した実話なのです。


伝説のチームを育て上げた“鬼監督”近藤兵太郎を演じるのは、永瀬正敏さん。その妻を演じるのは坂井真紀、そして大沢たかおも台湾にダムを造った八田興一役で特別出演するそうです。永瀬さんはデビューしたての頃に一度台湾映画のオファーをもらっており、今回は恩返しのつもりで多忙なスケジュールを調整し台湾での撮影にのぞんだといいます。

331日の未明、オーディションで選ばれた現役の野球少年演じる嘉農野球部ナインはユニホームのまま一列に並び、永瀬“監督”とメガホンを握る監督に向かい日本語で「お疲れ様でした!」と脱帽・一礼、昨年11月のクランクインから119日間の撮影を

終えたのでした。

決勝戦のシーンを撮影していた時期はちょうど、ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の台日戦と重なり、抜きつ抜かれつの緊張感あるゲーム展開で、台湾は惜敗したがスポーツマンシップあふれる清々しい戦いぶりが話題を呼びました。

魏監督は、「KANOの決勝戦と全く同じ、歴史が再現されているようで鳥肌が立った」「本当に大切なのは勝ち負けではない、人の心に残るのは勝敗を超えたスピリッツ」と興奮気味に語り、1931年の感動の記憶が台湾野球の力になればと期待を込めていました。来年の春節の上映が待ち遠しい一人です。

映画「KANO」日本語版https://www.facebook.com/Kano.japan

読者の皆さんの中には、「どうして台湾のチームが甲子園に出場できるの?」と不思議に思われた方がいるかも知れませんね。それは、台灣が日本の植民地時代、台灣の学校も日本の学校とみなされていたため、台灣の高校からも甲子園へ出場する事ができたのです。

 昭和6年(1931)の台灣代表として出場した嘉義農林高の監督は前述の松山商出身の近藤兵太郎で「俺が台灣の野球を強くする」という意気込みで台灣へ渡った人でした。彼は台湾最強のチームを作るべく台湾全島をくまなく歩き回り有望な選手を見つけ、嘉義農林へと呼び寄せたのです。


 松山商直伝のスパルタ式訓練で選手を鍛え、それに応えた嘉義農林の選手たちは徐々に頭角を現わし、1931年甲子園の切符を手にしたのです。下馬評にものぼらなかった嘉義農林は破竹の勢いで勝ち進み、見事に準優勝し、日本全国をあっと驚かせ、
甲子園の輝かしい歴史の中にその名を刻み込んだのでした。


※嘉義農林高は後年、国立嘉義技術學院となり最近、国立嘉義師範學院と統合し現在は国立嘉義大学となっています。

◆インターネットで検索していると下記のような新聞記事が載っていました。

台湾の嘉義農林OBが監督の墓参り 

1998/08/05  愛媛新聞掲載)

 全国高校野球選手権大会(朝日新聞社、日本高野連主催)の前身、全国中等学校優勝野球大会の第17大会(1931年)で台湾から出場して準優勝した嘉義農林(現・嘉義技術学院)のOBらが四日、松山市を訪れ、当時の野球部監督だった故近藤兵太郎さんの墓参りをした。
 近藤監督は元松山商野球部員。戦前に台湾に渡り、嘉義農林の野球部監督に就任。甲子園に初出場し、準優勝に導いた。
 この日、近藤監督のもとで野球をしていた嘉義農林野球部の選手やOBと日本在住のOBら約20人が再会を喜び合い、故人の思い出に話を弾ませた。近藤監督の母校の松山商を表敬訪問したあと、墓参りに出かけた。
 戦中・戦後の混乱で紛失していた準優勝の記念盾「朝日牌(はい)」をこの夏に復刻した。参拝者は持参した盾を墓前に添え、墓石に水や酒をかけて手を合わせた。
 準優勝当時に中堅手だった蘇正生さん(85
)は、墓前で思わず目を潤ませ「近藤さんは台湾の模範となる野球を教えてくれた。今の自分があるのはすべて近藤さんのおかげ。本当に感謝している」と話した。

今は年老いたOBの人たちが先生の墓参りにわざわざ松山に足を運んでくれていたとは、何と律儀な台湾の人たちでしょう。
この記事を見て「当時の先生と生徒の絆の深さ」に感動しました。


 

 

 


天下嘉農(嘉農ナンバーワン!)

天下嘉農(嘉農ナンバーワン!)                  2014/03/02

台湾は先月末から今日まで3連休でした。連休初日(28日)、前日に封切られたばかりの映画「KANO」を見てきました。午後1時半から始まった映を見終えて外に出たら時計は5時近くになっていました。170元(日本円約500円)の優待券で3時間も見られて大いに得した気分で、頭の中には最後の「天下嘉農」のシーンが焼き付いていました。とてもいい映画なので多くの人たちに見てもらいたいと思います。

下記サイトに映画紹介記事があります。ぜひご覧になってください。

http://www.taipeinavi.com/special/5048839

KANOこと嘉義農林学校は大正7年(1919)に台湾総督府が台湾農業の発展に必要な人材育成を目的に設立した学校で、現在は国立嘉義大学になっています。広大な敷地内には蘭の栽培施設があり、品種改良から輸出用の株の栽培まで、台湾ならではの事業を数多く行っているそうです。大学の本館には、嘉義農林学校の「新高山の西、……」で始まる校歌の額が飾られています。

この嘉義農林学校は、1931年(昭和6年)第17回全国中等学校優勝野球大会に出場。初出場で決勝戦進出、中京商に惜しくも敗れたが、堂々の準優勝を勝ち取ったのです。

当時の新聞はこう伝えています。

試合後、新聞記者が嘉農の近藤兵太郎監督にインタビューをした。近藤監督は松山商業野球部出身、その後台湾に渡って嘉農の教練(軍隊式の体育教師)になり、長く部員から慕われた監督だった。

「それにしても選手たちのスタミナはすごかったですね。甲子園まで4日の長旅と、この暑さによく耐えましたね」
「そりゃ、大したことじゃありません。何しろ部員は午後2時間の農業実習で汗をかいてから、日が暮れるまで練習しているのですから、むしろ回毎に休憩がある試 合の方が楽だったでしょう。暑さなんて問題じゃない。北回帰線の南にある熱帯の嘉義はもっと暑いですから。選手の中には甲子園は涼しいなんて冗談半分に 言っていたのがいましたよ。ワッハッハハ」と監督が答えた。
監督は急に真剣な表情になって記者に話を続けた。
「嘉農の野球部は台北のチー ムとは違う。台北のチームは全員が台湾在住の政府関係者や会社員の日本人の子弟であるのに対し、嘉農は日本人、台湾人、原住民の三者が渾然一体になった チームで、単に南部が台北より強くなったというだけではないのですよ。私はチームに三者一体の嘉農精神を教えています。親が誰かなんて関係ありません」

嘉義は北回帰線が通る位置にあり、その南は熱帯になるのだ。嘉義では梅雨空けの5月からは毎日暑い日が続く。嘉農チーム

はスタッフを入れて総勢18人が、嘉義駅を出発したのは8月9日の朝9時32分だった。駅前広場に集まったおよそ千人の市民に見送られる中、蒸気機関車が祝砲のように三度汽笛を鳴らしてゆっくりと動き出した。急行列車で基隆まで約300キロ、8時間かかり、一行が港町基隆に着いた時には陽暮れになっていた。当時日本に渡る台湾航路の基点として栄えていた基隆、選手たちは初めて見る港町の賑わいに驚かされた。

翌朝、誰もが生まれて初めて乗る大型定期船の大和丸が岸壁を離れるに従い、故郷の陸地が遠ざかることに不安と感傷を覚えたが、間もなくどっと疲れが出て、三等室のベッドの上で眠りにおちた。神戸まで1500キロの長旅には 2昼夜と半日58時間かかり、船が最初の寄港地門司港に着いたのは13日の午後だった。

大和丸は港にしばらく停泊した後、門司からの乗船 客を加えて夜中の瀬戸内海を神戸に向かった。翌朝、船が神戸に近づくと、六甲山の麓から海に沿って広がる美しい景色に、部員たちは目を見張った。こうして 8月14日、宿舎となる高校(旧制)の寮に入った。15日から二日間の練習をした。初戦は17日、神奈川商工を3:0で勝つと、札幌商業、小倉工業を退けて快進撃し、決勝に進出した。出場前には無名であった嘉農は一躍全国に知られるようになっていた。

嘉農チームが嘉義に帰ると、地元はその凱旋を熱狂して迎えた。それまで8回の台湾大会では台北一中、台北商業など台北代表が甲子園に出場してきたので、南部から初めて嘉農が台湾代表になった時に地元は興奮に包まれた。加えて初陣で甲子園の決勝戦まで進出した嘉農チームを、はるか日本から嘉義駅に降り立った郷土の英雄たちを、大群衆が歓迎した。「天下嘉農」、「天下嘉農」と大合唱があたりに響き渡った。嘉義市民にとって嘉農チームは甲子園では二番であったが、彼らの心の中では一番だった。

 

 


「KANO」と「海角七号」 

「KANO」と「海角七号」                                  2015/03/26

今甲子園では選抜高校野球大会が行われていますが、テレビ中継に夢中になっている人も多いかと思います。熊本に住んでいる今年106歳になる高木波恵さん(以下おばあちゃんと呼びます)もその一人で、おばあちゃんは大の高校野球ファン。熊本で先月21日に「KANO」の映画が公開される前日に全国紙の県内版におばあちゃんのことが紹介されました。彼女は、戦前台湾で暮らしていて嘉義農林の準決勝戦をラジオ放送で聞いていたと言いますから、高校野球はもう一世紀に及ぶファンなのです。そしておばあちゃんが若かりしき頃、今の台中市内にある烏日公学校(現烏日国民小学校)の教諭として台湾の子供たちに約10年間教えていたのです。

日本で新聞記事になった5日後の25日、烏日郵便局に日本から一通の手紙が寄せられました。そして今月23日にこの手紙のことが台湾でも新聞に大きく載ったのです。

以下現地の新聞によってその内容を記しましょう

106歳の高齢の日本人高木波恵先生が映画「KANO」に関する報道を読んでいるうちに76年前烏日で教壇に立っていた時の思い出がよみがえり、教え子のみんながまだ元気かどうか知りたくて、娘さんに代筆してもらって教え子の楊漢宗さん(89歳)あてに手紙を出したのでした。

でも封筒に書かれた宛先は古い住所だったために、今は昔の住居表示と変わっており郵便屋さんは届けることが出来ずにいました。(このあたりは海角7号の映画とそっくりです)郵便配達の郭柏村さんは同僚の廖さん、李さん、陳さんらと相談して差出人に返すかどうか検討していると、陳さんは「この手紙は厚くてかつ毛筆で書かれているのできっと大事な手紙に違いない」と判断し、みんなで協力し合って受取人に何とか届けようとなったそうです。その後役場などに行って問い合わせるも、個人情報保護法に阻まれ教えてもらえず、結局時間がかかっても一軒一軒あたって聞くほかになく、郵便屋さんの苦労が報われたのは38日のことでした。それは、烏日区栄泉里のもと里長だった楊本容さんの父親が受取人の楊さんだということが分かったからです。

配達員の郭さんが楊さん宅を訪れた時

「ごめん下さい。お母さん、こんにちは。ちょっと伺いますが、こちらに楊漢宗さんと

言う方いらっしゃいますか?」と、聞いたら

「いますよ。」との返事。

この瞬間、郭さんは「ああよかった。やったあ!」と思ったことでしょう。

 

この辺の気持ちを、郭さんは「何度も探したけど、この住所は現存しない古い住所だったので、探し当てるまでの過程が海角7号と同じストーリーで、自分でも何か妙な感じがしていた。」と言っていました。

 

それにしても台湾の郵便屋さんはすごいですよね。後日のネットの書き込みにも「彼らは本物のプロだ。」とありましたが。全くそのとおりだと思います。]

 

受取人の楊さんは病気のため療養中で、応対に出た息子さんは「高木先生は2,3年生の時の担任の先生で、ぼくの親父は当時級長だったので、先生は特に印象に残っていたのかも。それで親父に連絡してきたんじゃないかな。」と語っていました。

この手紙は、2枚の便せんに毛筆で書かれてあり、ラジオで嘉義農林の決勝戦を聞いたことなどの思い出や先生が教え子を思う心が溢れており、烏日公学校卒業写真2枚も同封されていて、楊さんを通じて他の教え子さんたちの消息も知りたいと記されておりました。

病の父親に代わって楊本容さんは手紙の中に書いてあるリストから8名のクラスメートと連絡がとれ、先生に手紙を出すようにお願いしたそうです。お父さんの同級生だった蔡さんも楊さん宅を訪れ高木先生は美人でまじめな先生だったと思い出を語り「必ず手紙を出しますよ」と言ったそうです。

時あたかも桜の季節に、教え子さんから近日中に手紙が届くことでしょう。おばあちゃん、いや高木先生にとって今年の春は最良の春になるようです。どうか健康に留意して日本一いや世界一を目指して長生きされることを心から望んでいます。

 

(後日談)烏日公学校の校歌が見つかりました。この母校の校歌を、高木先生をはじめ生徒たちは元気いっぱい歌っていたんでしょうね。歌詞がとてもよく、機会があればどんな曲か一度聞いてみたいものです。

                   

 

 


「拝啓106歳先生 台湾より」  

拝啓106歳先生 台湾より」                      2015/05/18

こんな見出しで始まる新聞の切り抜き記事が、昨日日本からメールで送られてきました。送ってくれたのは西日本新聞社の以前の台北支局長です。
熊本の高木波恵さんのその後の経過を気にしていた所、「今日新聞に掲載されたよ。」と言って送ってくれたのでした。
これまで約30通届き、国際電話で名人に化の教え子と日本語と台湾語の会話を楽しんだとか。台湾語も思い出し、ますます元気だと最後は結ばれていました。めでたし、めでたしですね。

 

 

                     

 

 

 



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