閉じる


愛しいひと

愛しいひと

 氷に浮かぶシャンパンのボトルが揺れて、音を立てた。その音で、その高価な酒であるコルドン・ルージュがひとりの女に所属していることを確認した。

 安らかな眠りのための、一杯のナイトキャップ。ふらりと入った初めての店だったが、ガラス越しにリタイアしたかつての軍人たちが楽しそうに飲んでいる様子を見ていたので、気軽な居酒屋のように覗いてみたいと思っていたのだ。

 そのボトルを独り占めしているのは、まるで雨宿りにやって来たような女。確か、雨は降っていないよな・・・窓の外を確かめてみたくなる、水の雫を湛えたひとに見えた。

「hey...you...もう、いいかしら」

 彼女は微笑みなが俺の方に身体を向き変えた。知らず知らずのうちに、そのひとを凝視していたことに気づく。慌てる俺に、彼女は小さくウインクして言った。

「very...expencive」

 わたしの値段はとっても高いのよ・・・!?Oh,No,!フッカーだったのか。驚きと落胆の表情を隠さなかった俺を見て、彼女は喉を反らせて笑った。

「冗談よ、ごめんなさい。・・・嫌でなければ、少し、手伝って」

 シャンパンボトルをつかんだ指先は、ネイルもしていない短い爪。そういえば服だってシンプルなスーツ。こんなひとが娼婦の訳がない。俺は自分の拙さに顔が熱くなった。

 

 

 

 そのひとの名は、クレア。彼女は俺をデイヴィッドやデイヴと呼ぶ他に「hey you」という言葉を使った。そして、そのたった6文字のアルファベットは、その時々とても饒舌に彼女の想いを俺に伝えた。例えば「ね、あなた」だったり、「いけないひとね」だったり、「・・・来て」だったり。いつも違うニュアンスを持つ、その呼びかけをもっと聞きたくて、俺はふいに彼女をきつく抱きしめる。いつかは遊びに行ったビーチで彼女を抱き上げ、波に向かって全速力で走ったこともあった。

「バカね!やめて!」

 でも俺は、彼女のhey youを聴くまでは止めなかった。ふたりとも波に巻かれて、砂で擦り傷を作って、それでも笑い合ったあの日。犬みたいに飛沫を撒き散らす俺の頬を包んだ温かな手のひら。優しく走る、彼女の目尻の笑いジワが愛しくて、思わず俺は泣いてしまいそうになった。

 

 

 

 いつしか俺の部屋のあちこちに彼女の持ち物が増え・・・シームレスのストッキング、デンタルフロス、洗面台のガラスのボトル、それから俺の飼い猫のために買ってくれたおもちゃやジャーキー・・・柔らかな生活感が俺をほっとさせてくれた。毎日、俺は朝別れたばかりの彼女に逢いたくて、息を弾ませて階段を駆け上った。そんな俺の帰りを彼女も奇跡だと言わんばかりに迎えてくれた。ありふれた日々の奇跡、本当にそれは儚い奇跡に支えられていたものだった。

 ある休日の昼下がり、冷たいビールをやりにふたりで入ったパブで、ひとりの男が帰りがけ、彼女の耳元で囁いて行った。

「よう、ゴージャス。久しぶりだな。また頼むぜ」

 その言葉が聞こえなかったとしても、そいつの下卑た表情で何を言ったのかがはっきり判った。俺はそいつを殴るために立ち上がったが、そのまま動くことができなかった。クレア・・・

おまえは・・・。血の毛を失った白い顔を俺に向ける。嘘だと、人違いだと言ってくれ。しかし、彼女は絶望し、頭を抱え、髪を乱した。俺は、そんな彼女を置いて店を飛び出した。

 あの、俺ひとりだと思わせるようなため息や指先は、彼女の商売道具!?金を払えばレンタルしてくれるものだった。俺は彼女を憎んだ。そして、まるでイカレていた自分自身をそれ以上に激しく憎んだ。

 

 

 彼女のいなくなった空間。あの、hey youと呼ばれることのない毎日がこんなにも俺にダメージを与えるなんて、予想もつかなかった。何度か女とも寝たけれど・・・もちろんメイクラブではなく、ファックのように潔いものでもない、寂寥感を募らせるための行為でしかなかった。

 そんなある日、一通の手紙が届いた。差出人は・・・クレア。ていねいに書かれ文字がせつなくて、俺はスコッチをストレートで煽ってからでないと最後まで目を通すことができなかった。

 

「親愛なるデイヴィッド

 あなたに嘘をついていたこと、やっと謝ることができて、少しほっとしています。ごめんなさい。とても愚かな嘘です。許さなくていいのよ。

 初めてあなたに逢った時に、私は恋におちていました。これまでの人生をなかったことにしたい、と真剣に思うくらい。でも、やはり、そんなのは長続きしませんね。だけど、あなたと過ごした日々は、私の人生の中でいちばん美しい時間でした。そんな時を私に授けてくれたこと、心から感謝しています。

 あなたの人生が愛に満ちたものでありますように、祈っています。

                                                    クレア

P.S.タイガーのお気に入りのごはんのこと、キッチンにメモで留めてあります。」

 

 相棒の猫、タイガーがチラと横目で俺を見ていた。何やってるんだよ・・・とでも言いたげに。

 

 

 俺は彼女を探した。あらゆる伝手を使って。やっと掴んだのが半年後。一度だけ紹介されたことのある彼女の叔母さんに何度も何度も頼み込んで、俺の真剣さを判ってもらったようだ。二度とあの娘を哀しませないで、という言葉とともに教えてくれたのは、彼女が今働いているニュージャージーのカフェの住所。

 そこは海岸に面した、地元のロコ達で賑わう気取らない店だった。夕方からの客を迎える準備をしている人気のない時間。店のドアを開けた俺が逆光だったため、彼女はしばらく眩しそうに俺を見ていた。ためらわずに彼女の側へ進む。この半年以上、この女のことだけを求めていた。

「・・・デイヴィッド!?・・・いけない」

 俺は逃げ出そうとする彼女をなだめるように椅子に座らせた。

「帰ってちょうだい、お願いよ」

 苦しげに眼を閉じる彼女の手を取り、俺は床に跪いた。

「わかってる。君はエクスペンスィヴなんかじゃない。プライスレスだ。君のすべてを愛するよ。クレア・・・Will you marry me?」

 ひと言、イエスと言ってくれ!彼女は返事をする代わりに、その濡れた瞳から一粒、真珠が転がるように涙が頬を滑り、ふたり重ねた手の上で弾けた。それが合図のように、次々と零れ落ちる真珠たち。俺は、女の涙がこんなにも美しいものだったのか、とバカみたいに感動していた。

 俺たちはここから始めるために出逢ったんだ。hey you・・・そうだろ?

 

                                                      fin.♪