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ダブルモノローグ

ダブルモノローグ

 私が彼に初めて逢ったのは、4月。3度目の土曜日。新緑と雨の匂いを含んだ風が優しく頬を包む。あやまちを犯すなら今だ、とそそのかすように。

 私は犯すべきあやまちも思いつかぬまま、気まぐれな季節の春の香りを味わうために、ストリートに面したテラスに座った。明るいうちからの、ショートドリンクス。その飲み物の名前「XYZ」は、終わりを意味していた。そう、私は人生に何も期待していない。幸福になるという欲望は、すっかり無くしていた。ささやかな喜びといえば、季節の気配を誰より敏感に感じて、お酒と一緒に楽しむこと。それだけ・・・。こうして時間をやり過ごすことで、あまりにも贅沢で不毛な人生の浪費を重ねている。それでよい、充分だと思っていた。

 その日、こんな風に唯一の快楽を彷徨っている時、それを邪魔する人間が現れた。私を見つめている、無邪気な欲望を持った、男の視線。しかも、天気の話だなんて。彼も、日の落ちる前からのマティーニ。古風な男を感じさせる趣味だけど、見ず知らずの女性に話しかける最低限の「エクスキューズ ミー、レイディ」その言葉さえ知らないなんて、無邪気にもほどがある。

 私は、唯一の楽しみから引き戻されたことに、とても腹を立てていた。

                                                                                                                                                                 

  

 無防備な女に見えた。外見は見事に隙のない・・・ハイヒールから繋がる美しいふくらはぎの曲線、艶のある髪、微かな微笑みを刻む唇のルージュ、ナチュラルな爪・・・だからこそ似合う、強い酒。そんな女がとても無防備に見えたのは、まるで雌ライオンがアフリカの大草原で日光浴を楽しんでいるように、自然に堂々としていたからだった。彼女を眺めていたら、俺もなんだか気分が良くなって、雄ライオンが鼻をすり寄せるように口走ってしまったんだ。

「やあ、いい天気だね!」

 彼女は視線だけ動かして俺を一瞥すると、見事に無視をした。まるで何事もなかったように、ライオンの日光浴を続行した。不思議と腹は立たなかった。軽く口笛でも吹きたくなるくらい、徹底していたからだ。俺は、街で気になる女に出会った時、ためらいなく声を掛けるようなレディスマンではないけれど、彼女とは少し、話してみたい気がした。どうにも同じ匂いを感じてしまったからなのかもしれない・・・。

 だから、ひと月後の週末のマルシェで彼女を見つけた時の嬉しさは、まるでティーネージャーのようだった。

 彼女はスッピンで、果物や野菜を買っていた。「おまけ」されて笑ったりして。俺は、並びの店で野の花の小さなブーケを買うと、彼女の前にそれを差し出した。

「これも、どうぞ!」

 驚き顔の後、彼女は俺の顔を思い出し、意外にも「了解!」の笑顔で言った。

「ありがとう。いただくわ」

 

 

 

 昼下がりのバールで、水のように軽く飲めるテーブルワインをおかわりする。今日、初めて名乗りあった男と。料理を取り分けてくれる骨ばった手に、心まで掴まれそうで、思わず目を逸らす。混み合うマルシェの中で、彼はその武骨な手の中の小さな花束を差し出した。まるで、幼い子供が大好きなおもちゃを見せてくれるように。その邪気の無さに、つい心がほどけてしまった。その時、自分がタイトなドレスやメイクアップといった鎧をまとってなかったこともあるが、こんな笑顔ができる男の手の内をちょっと見てみたい気もしたのだ。

 しかし彼も私も、何も見せ合うことはしなかった。まずテリトリーの端から相手を伺うように、乾杯。ワインが進んでも、プライベートについては殆ど語らず、でも何度も笑い合いながら、盛大にグラスを空けた。

 彼は、南米にいた頃の話を。テキーラを「トゥ・キラー」と言って、バーにいる全員に奢る。翌朝、死体のような気分で目覚めるくらいまで。実際、そうなってしまいたい事が一度あったそうだ。

 でも、とにかく今は、ふたりとも健康で幸福に飲めることに感謝し、店を出た。最初のブロックで別れ、暫くして振り向くと、彼はまだそこにいた。もう一度手を振ると私は足を速めた。愛しいものを置いてきたようなせつなさに怯えたのだ。私は怖かった。ただひとりの男を想うこと。恋におちてしまうことが、とても怖かったのだ。

 

 

 

 俺たちは「今度」とか「また」とかいう言葉を使わずに、別れた。アドレスさえ聞かず。あらためてデートの申し込みをする、そんな雰囲気ではなかった。実際、ただ楽しく昼下がりのひと時を過ごしただけなのだが、彼女からは俺が今まで愛してきた女たち・・・柔らかくて、いい香りがして、喜怒哀楽の判りやすい・・・そう、それで充分ハッピーな生きものとは違っていたのだ。何というか、All or Nothingで決断を突きつけられるような、潔さの持ち主に思えた。

「中途半端なデートをするくらいなら、ひとりでいた方がマシ。”つがい”になれないような男は近寄らないことね」

 そんな壁を感じた。だからと言って俺は尻尾を巻いたわけではない。その時、情熱だけでは踏み込んでは行けない、彼女の神聖な場所を尊重した、それだけだったのだ。限りなく、ジェントルな想いだけで・・・。

 ところが恐ろしいもので、縁というものが・・・あるのなら・・・俺は一体どうすれば良いんだ、というシチュエイションに打ちのめされた。一昨年前、交通事故であっけなく死んだ親友の、思い出して生き返るわけじゃないが、残された者たちがやりきれない感情をチューニングするといった集まりに、彼女が来ていたのだ。

 マンハッタンのバー。派手なバーテンダーにお目当てが群がるようなホットな店をあえて選んだのは、死んだあいつがかなりいいヤツ過ぎたからだ。喧騒に紛らわせなくては、その死を誰もが受け入れられないくらいに。

「今日は、クレイジーに飲もうぜ!」

 急いで逝っちまったあいつに、ハイタッチ。誰もがそんな気分だった。だけど、怯えたようなアルカイックスマイルでやって来て、話しかける人々に応える彼女は別人のように儚い女に見えた。嘘だろう・・・。

「彼女、誰?」

眉毛を上げる俺に、側にいた友達が言った。

「お前は南米にいたから知らないな。あいつ、婚約していたから」

もちろん!知っていた。選んだ女がいたことを。そして、俺は結婚式に参加するために仕事をやりくりしていたのに、結局、あいつの葬儀にさえ駆けつけることができなかったんだ。

「トゥ・キラー」・・・ふさけるな!と、ヤツの死を知った夜、ぶつけるようにその酒を浴びた・・・。

 

 

 

 耐えられなかった。もう、皆、過去にしている。あのひとのことを過去形で話している。まだ現在進行形なのは私だけだと判っていたけれど、あらためて自分が今を生きていないことを確認しただけだった。バカみたい・・・来なければよかった・・・。でも、どんな形でも、あのひとを確認できるのならトライしてみたかった。どんな形でもいいから、あのひとに逢いたかった・・・。話しかけてくれる友人たち、あのひとを愛してくれているのは理解できるけど、どうしても心を保つことができなくなり店を出た。いつも泣いてしまう、この場所に来てしまった。冷たい大理石に刻まれた、あのひとの名前。撫でるたび、あのひとの不器用な指が私の背中をこれ以上なく繊細に滑っていった日を思い出す。

「あんたは、あいつの・・・」

 誰かが後ろに立っていた。決して見られたくない涙。それが、あの4月の午後のバーで声をかけてきた、あの男だと知った瞬間・・・しかも、ほんの少しでも心が動いた男の・・・激しい怒りで身体が震えた。彼の頬を打つために振り上げた手を掴むと、彼はいきなり私を強く抱きしめた。

「あんたが、あいつの・・・」

 唇が触れてしまいそうな距離。だけど、彼はくちづけることをしなかった。そして、その瞳が果てしない哀しみで満ちていることにやっと気づいたのは、彼の「こいつは、ガキの頃からの親友なんだよ」という絞り出すような言葉だった。

 

 

 

 瞬間、腕の中の、彼女の怒りで輝く目に見とれていた。まるで爆発寸前の火薬の匂い・・・。たまらず、もう一度彼女を抱きしめようとすると、激しくもがいて叫んだ。

「やめて!恋なんてもうたくさん!わかるでしょ!?もう、ごめんなのよ・・・」

 俺は、この手負いの獣を逃がそうとは思わなかった。そして、この生き物に小細工なんて効かない。俺は、覚悟を決めたんだ。いみじくも大親友の墓の前での告白なんて!

「恋じゃない。うまく言えないけど、マジなんだ!あんたは逃げてる。いつまでウイドゥでいるつもりなんだ。人生から隠れてるなんて・・・あいつは何て思うか」

 激しく頬を打たれた。・・・いいんだ、それで。それから、もう一度彼女の頬を両手で包み、はじめてのキスをした。

「残念だな・・・これからは俺が続けるぜ」

 こんな女を遺して早々に逝っちまった、せっかちなあいつにウインクすると、ヤツは天国からウインクを返してきやがった。

「頼むよ。言っておくけど、彼女、相当、取扱い注意だぜ!」

 まるで生まれ変わったような、彼女のおしゃべりな唇は俺に囁き続けている。

「さあ、私は心をハダカにしたわ。で、あなたはどうなの?」

 もちろんさ!俺は唇を離さずに彼女を抱き上げ、セメタリーでワルツのステップを踏み始めたんだ。

                                                                                                                                 Fin♪


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