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 緩やかな坂道を、男がリヤカーを引きながら上がっている。

箪笥(タンス)と僅かな家財、そして一人の女が乗っており、車軸が鈍い音を立てている。

 その坂道は長い木橋で、下には、暗く淀んだ河が横たわっいるが、男には河が流れているようには見えない。

 下り坂に向かう手前で男は立ち止まり、額に噴き出している汗を拭った。

「どうしたの?」

 女が問いかけ、男が応える。

「いや・・・汗を拭いただけだよ」

「私の眼が見えれば、貴方に苦労させなくても済むのにね」

 確かに、彼女は眼を包帯で覆っている。

 独り言のようにも聞こえる女の呟きに、男は何も言わず、ゆっくりとリヤカーを引き始めた。

 メインストリートと呼ぶにはあまりにも人気(ひとけ)の無い、木造平屋建ての並ぶ通りは、日没後の夕日に照らされてセピア色に染まっている。この時間帯には珍しく、子供の声すら聞こえない。男の脳裏に

ゴーストタウンという単語が浮かんだが、口にはしなかった。あえてこの町を選んだのだ。ここなら、二人の仲だの、彼女の眼のことだのを聞いてくる人間がいないだろうから。


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最終更新日 : 2017-02-26 22:32:23

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■ □ □ 『町』side ・F

 リヤカーの上で、私は悩んでいた。もしかして、迷惑になっていないだろうか? 足手まといになって、置いて行かれたりはしないだろうか? 不安だけが募っていく。ちゃんと向き合ってくれたなら、こんなに不安になることもないのに……。

 眼が見えなくなった時は、とても優しくしてくれた。

――俺のせいで、そうなったんだからな……。

口癖のようにそう言って。

 確かに、眼が見えなくなった一因は彼にある。しかし、治らない原因も、やはり彼にある。彼が、ちゃんと向き合ってくれないから……。彼の気持ちが私から離れてしまったから……。私は心と瞳を閉ざしてしまったのだ。もし、彼がちゃんと向き合ってくれたなら、私は笑顔で『おかえりなさい』と言うことができるのに。

 リヤカーの鈍い音と、揺れが止まった。

「どうしたの?」

 返事が返ってこないかも知れない――そんな不安が

ふと、よぎる。

「いや、汗を拭いただけだよ」

「私の眼が見えれば、貴方に苦労させなくても済むのにね」

 男は何も言わず、リヤカーを引き始めた。だが、彼女の耳には彼の細く長い溜め息が聞こえた。先程の言葉が嫌味に聞こえたのかも知れない。眼が見えない分、音には敏感になってしまっている。そのことも、彼と私を苦しめている原因の一つなのだろう。

 


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最終更新日 : 2017-02-26 22:32:23

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□ □ ■ 『船内』side・F

 アルデバラン星系に向けて発射された二人乗りの宇宙船、セント・エルモ号の中で、私と貴方は当てのない返事を待っていた。外宇宙に向けて発信されている電波は、なぜかヴァイオリンの音に似ていて、私の胸を締め付ける。母星を出発した時は、人が羨むほど仲のよかった二人だったのに――今では、こんなに近くにいるのに、私と貴方の心は、まるで母星とこの宇宙船ほども離れていて――私は胸の中で、質問だけを繰り返す。

『私は貴方が好きでした。今でも貴方が大好きです。貴方は私が好きですか? 貴方は私が好きですか?!』

 でも、その言葉を口にする事は出来ない。なぜなら、貴方がこんな事を言い出すのが怖かったから。

 

――もう、終わりにしよう。母星に帰ろう……。

 


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□ ■ □ 『部屋』side・F

 部屋に入った時から、彼は落ち着きがなかった。

何かから私の注意をそらそうとしている。冷蔵庫を覗いたり、絡まりあったビデオテープを解こうとしていたり……必死に誤魔化そうとしている彼に、私はといかけた。

「ねぇ……」

「んん?」

 彼は振り向きもせずに答えた。

「何で、あの時あんな事言ったの?」

「あの時って?」

「会社の廊下で課長とすれ違った時よ!」

「従妹の祐子……」

「私は従妹なの?」

「いや……フィアンセ……だな」

「課長には仲人になってもらうかも知れないのに?」

「何であんな事を言ったのかな……」

 悪びれもせずに答える彼に、私は思わず溜め息が出た。

「何も解ってないのね……」

「解ってない……って、何が?」

「まだ気が付かないの?」

「だから何が?」

「いつになったら、私の事をちゃんと見てくれるの?」

「いつ、って……今だって見てるだろ?」

「見てないのよ。昔も、今も、そして未来も……」

「どういう意味だ?」

――やはり、彼は解っていない。

 


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■ □ □ 『町』side・F

 私は手にしていた湯飲みを口に運んだ。微かに緑茶の香りがするが、ほとんど味がしない。茶葉の量が少ないか、出涸らしを使っているかのどちらかだろう。少し離れた所で男が何かを啜る音がした。多分、自分が手にしているものと同じものだろう。少し間があり、小さく長い溜め息が聞こえた。その溜め息には絶望と苛立ちが混じっていた。直後、男の動く気配がしたかと思うと、何かが自分に向かって飛んでくるのが解った。

 私は正座を崩して、身体を横に倒した。と、同時に、私のいた辺りを何かがかすめ、壁に当たる音と畳に落ちる音が時間差で聞こえた。私は上半身を起こし、音がした辺りを手探りした。

 指先に、温もりが残る感触が触れる。

形と大きさからして湯飲みであることが解った。

 私は、男が自分に向かって湯飲みと共に怒りを投げ付けてきたことを理解した。だが、私は何も言わず、むしろ男に対して哀れみに近い感情を抱いていた。

 男がちゃんと向き合ってくれなければ、ちゃんと気付いてくれなければ、この状況は変わらない。

――私は貴方以上に辛いのよ……

 私は湯飲みを手に取り、子供の頃に聞いた異国の神話を思い出していた。


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